用語辞典 — ツギノテ。LEARNGLOSSARY

文久の改革

文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)とは、1862年(文久2)に勅命を受けて実施された江戸幕府の幕政改革です。人事・職制から軍制・洋学まで広く及びましたが、教科書でとくに大きく扱われるのは参勤交代の緩和でしょう。

背景には、開国後の政治の混乱があります。大老井伊直弼の暗殺後、幕府は外圧に応じるため大規模な海軍と洋式陸軍の創設を計画しました。そこへ、公武合体を唱える鹿児島藩の島津久光と勅使大原重徳が到着し、重点が軍制の整備から政治改革へ移ります。

人事

一橋家の当主一橋慶喜が将軍後見職に、越前藩の前藩主松平慶永(春嶽)が政事総裁職に、会津藩主松平容保が京都守護職に任じられました。若年の将軍徳川家茂を支える体制です。かつて将軍継嗣問題で退けられた旧一橋派の大名が、ここで政権を握ったことになります。

参勤交代の緩和

この体制のもとで、隔年交代であった大名の参勤交代が3年に一度に改められ、江戸在留期間は100日とされました。江戸に置かれていた大名の妻子についても帰国が許可されています。寛永12年(1635)に武家諸法度で明文化されてから、200年余り続いた形が一度に解かれました。

諸藩の負担を軽くし、人と金を海岸の防備に回すためと説明されます。ただし結果として、諸大名を江戸に集めておく仕組みが失われ、幕府の求心力は弱まりました。元治元年(1864)に旧に復そうとしたものの、従わない藩も少なくなかったと、幕末の参勤交代を扱った研究では整理されています。

軍制と洋学

幕府陸軍の設置、西洋式兵制の導入といった軍制改革も進められ、蕃書調所は洋学調所と改められました。もっとも軍制改革のほうは、将軍直属の陸軍の一部が実現するにとどまったとされます。あわせて、200年余りぶりの将軍上洛も決められました。

補足:人事・参勤交代の緩和・軍制と洋学に関する記述は『百科事典マイペディア』および『山川 日本史小辞典 改訂新版』(コトバンク所収)による。元治元年の復旧については土田一道「幕末参勤交代制度」(『駒沢史学』第22巻、1975年)の整理として紹介されているものによる。関連:参勤交代は、将軍への軍役として始まった。その意味が失われたのは、十八世紀の半ばである。軍役四つの口