参勤交代は、将軍への軍役として始まった。
その意味が失われたのは、十八世紀の半ばである。
要点:参勤交代の芯にあったのは、将軍に対する軍役である。寛永十二年の武家諸法度は、参勤を命じるのと同じ条で「従者の員数が近ごろ甚だ多い、減らすがよい」とも命じていた。大名を貧しくするための仕掛けだったという説明は学校では今も生きているが、研究の側では別の見方が主になっている。制度が本来の意味を失うのは十八世紀の半ばからで、幕末には幕府みずからが緩め、二年後に戻そうとして戻せなかった。
参勤交代を習うとき、たいてい一つの説明がついてくる。大名に金を使わせ、力を削ぐためであった、という説明である。よくできた話だ。行列は長く、道中は遠く、江戸の屋敷は金を食う。筋が通って見える。
ところが、制度を定めた法度そのものを開くと、様子が違う。
法度は「供を減らせ」と命じている
寛永十二年(一六三五)、三代将軍徳川家光の名で武家諸法度が改められた。世にいう寛永令である。その第二条に、参勤交代が明記された。
一、大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参覲致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。
(武家諸法度 寛永令 第二条)
おおよその意味はこうなる。大名と小名の江戸交替を定める。毎年夏の四月に参勤せよ。ただし供の数が近ごろあまりに多く、領国の出費であり領民の労苦である。今後は身分に応じてこれを減らすがよい。
金を使わせるための制度なら、供を減らせとは書かぬ。ひとつの条文のなかに、義務を課す言葉と、負担を抑えよという言葉が並んでいる。武家諸法度は国立公文書館デジタルアーカイブに収められており、原本の紙面を画面の上で開くことができる。
行列が膨らんだのは事実である。ただしそれは、幕府が膨らませたというより、諸家が体面を競った結果でもあった。法度の文言は、その膨張を止めにかかっている。
「参勤」と「交代」は、別の旅を指す
言葉のほうも押さえておきたい。一般に、「参勤」は国元から江戸へ向かう旅を指し、「交代」は江戸から国元へ帰る旅を指すと説明される。往きと帰りに別の名がある。一定の期間、主君のもとに出仕して勤めを果たし、暇を賜って領地に帰り、政務を執る。往復そのものが目的ではなく、勤めに参ることが目的であった、という語の形をしている。
その勤めとは、門番であり、火番であり、普請であった。武具を携えた列が街道を行くのは、見せるためだけではない。兵を率いて主君のもとへ出向く形が、そのまま制度になっている。
教室と学界で、答えが分かれている
この食い違いを正面から扱った論文がある。文教大学の早川明夫が二〇〇七年に書いた「参勤交代のねらいは?」である。要旨によれば、学校教育の現場では大名の経済力・軍事力を抑制し削減することが目的だと理解されているのに対し、学会では異なる見方が一般的であるという。早川はそのうえで、当時の教科書の記述と、授業で気をつけたい点を示している。
では、その「異なる見方」とは何か。洛北史学会の『洛北史学』に載った藤本仁文「参勤交代制の変質」(二〇一二年)の要旨は、こう述べている。この制度は、幕府が指定した時期を全大名が忠実に守って参勤交代を繰り返すことにより、江戸や全国各地の軍事力配備、軍役体系を維持する点に本来の意味と機能があった、と。
つまり参勤交代は、将軍への軍役である。諸藩が財政に苦しんだ記録は各地に残っている。ただ、苦しんだことと、苦しませることが目的であったこととは、別の話である。
崩れたのは、十八世紀の半ばである
藤本の論文の要旨は、その後の道筋も示している。大名に課される役が増え、藩主の病気などを理由に、宝暦から天明にかけて、幕府が指定した時期を守るという原則が崩れた。十九世紀に入ると、個々の大名は幕府から指示された時期を守らず、それぞれの都合と思惑で江戸と国元を往復するようになる。
そうなれば、制度は骨組みだけが残る。幕藩領主全体の共同の利害を保つという意味を持っていたこの制度は、十八世紀半ばを境に、大名がただ江戸と国元を往復して藩財政を圧迫させていくだけの負担になっていった、と同じ要旨は記している。
教科書に書かれた「藩の財政を圧迫した」は、間違いではない。ただしそれは制度の設計ではなく、制度が本来の意味を失ったあとの姿である。原因と結果の順序が、教室では入れ替わって伝わっている。
幕府が、自分の手で緩めた
文久二年(一八六二)の夏、江戸に薩摩の島津久光と勅使大原重徳が着いた。一橋慶喜が将軍後見職に、越前の前藩主松平慶永が政事総裁職に就く。この体制のもとで決まったことのひとつが、参勤交代の緩和であった。
隔年であった交代を三年に一度に改め、江戸に留まる期間を百日とした。江戸に置かれていた大名の妻子には帰国が許された。二百年余り続いた形が、一度に解かれている。海防に人と金を回すためであった、と説明される。
二年のちの元治元年(一八六四)、幕府は制度を旧に復そうとする。だが従わない藩も少なくなかったと、幕末の参勤交代を扱った研究では整理されている。命じることはできても、従わせることができなくなっていた。そして慶応三年(一八六七)、大政奉還とともに、この制度は姿を消したとされる。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 寛永12年(1635) | 武家諸法度(寛永令)第二条に参勤交代が明記される。同じ条が従者の削減を命じる |
| 宝暦〜天明期 | 幕府の指定した時期を守るという原則が崩れはじめる |
| 19世紀 | 諸大名がそれぞれの都合で江戸と国元を往復するようになる |
| 文久2年(1862) | 三年に一度・在府百日へ緩和。大名の妻子の帰国も許される |
| 元治元年(1864) | 旧に復そうとするが、従わない藩も少なくなかったとされる |
| 慶応3年(1867) | 大政奉還とともに制度が姿を消す |
いま、この一行を読み直す理由
早川が教室と学界の食い違いを指摘したのは二〇〇七年である。それから教科書は改訂を重ねた。それでも「大名の財力を削ぐため」という一行は、覚えやすさの分だけ長く残る。
学び直す側にとって、参勤交代は使いでのある題材である。制度の目的を書いた紙が残り、その紙の言葉と実際に動いた形とがずれ、二百三十年かけてずれが広がっていく過程まで追える。習った一行と、いま分かっていることが食い違う典型として読める。
武家諸法度は、国立公文書館デジタルアーカイブで誰でも開ける。第二条の後半、供を減らせと書いた三十字ほどを、自分の目で確かめてみるとよい。
編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.08.22
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