サラミスの海戦に勝ったとき、アテナイの街はすでに焼かれたあとでした。
要点:前480年の秋、ギリシア連合艦隊はサラミスの狭い水道でペルシア艦隊を破りました。この戦いは「数で勝る相手を狭い場所へ誘い込んだ」と説明されます。ただ、その戦い方を選べた時点で、アテナイの市民はすでに街を出ており、アクロポリスは焼かれたあとでした。順番を戻すと、勝ち方の話より前に、都市をひとつ空にするという決定が置かれています。そしてその決定が通るためには、三つの下ごしらえが要りました。
サラミスの海戦は、教科書でも図解でも、たいてい同じ描かれ方をします。大きな艦隊が狭い水道へ入り、身動きが取れなくなったところを突かれる。矢印を二本引けば説明が終わる戦いです。
ただ、この説明はすべて当日から始まっています。当日までに何が済んでいたのかを並べ直すと、話の重心は少し動きます。
まず、順番だけを並べる
年表として見ると、こうなります。
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 前483年ごろ | アッティカ南部のラウレイオン鉱山で銀の豊かな鉱脈が見つかる |
| 前480年 夏 | テルモピュライの陸戦とアルテミシオンの海戦。ギリシア艦隊は南へ退く |
| 前480年 | アテナイの住民が街を出る。ペルシア軍がアテナイに入り、アクロポリスが焼かれる |
| 前480年 9月下旬ごろ | サラミス水道での海戦 |
| 前479年 | マルドニオスが再びアテナイを占領し破壊。プラタイアの陸戦 |
海戦は三段目ではなく、四段目にあります。街を明け渡すほうが先です。しかもそれは、逃げ遅れて起きたことではありませんでした。
二年前に出た銀を、何に使ったか
ひとつめの下ごしらえは、お金の使い道です。
ラウレイオンで新しい鉱脈が見つかったとき、アテナイには前例のあるやり方がありました。国庫に入った銀を市民に分配することです。三段櫂船を造るという案を出したのがテミストクレスで、ヘロドトスによれば、その名目はペルシアではなく、近隣の島国アイギナとの争いに備えるためだと説明されました。
造られた船の数には食い違いがあります。ヘロドトスは200隻と書き、アリストテレスの名で伝わる『アテナイ人の国制』は100隻としています。どちらが実数に近いかは決着していません。ただ、どちらの数であっても、アテナイが数年のうちに艦隊国家に変わったことは動きません。
そしてこの艦隊は、漕ぎ手の数だけ人手を要します。重装歩兵の装備を自弁できない層が、櫂を握って戦力になりました。街を捨てて船に乗るという選択が現実味を持ったのは、すでに船があり、乗る人がいたからです。
「木の壁」を、どちらに読むか
ふたつめは、言葉の解釈です。
ペルシアの進軍を前に、アテナイはデルフォイの神託を求めました。ヘロドトスが伝える二度目の答えには、木の壁だけが破られずに残る、という一節と、神なるサラミスよ、おまえは女たちの子らを滅ぼすだろう、という一節が含まれていました。
この「木の壁」を、アクロポリスを囲っていた柵のことだと読む人々がいました。テミストクレスは別の読み方を示します。もしサラミスでアテナイ人が滅びるのなら、神託が「神なる」などという穏やかな形容を使うはずがない。滅びるのは敵のほうで、木の壁とは船のことだ、と。
結果だけを見れば、この読み替えが通りました。ただ、神託が当たったという言い方は正確ではありません。読み方が二つあり、片方を採った人々が海に出て、もう片方を採った人々はアクロポリスに立てこもり、そこで殺された、というのがヘロドトスの書いている内容です。同じ一文が、生死を分ける形で二つに割れています。
託宣が曖昧だったのではなく、曖昧なものを一つに決めなければならない場面があった、ということです。
逃げる先が要る
三つめは、いちばん地味な条件です。市民を街から出すには、受け入れる場所が要ります。
ヘロドトスは、アテナイ人が子どもや家財をトロイゼン、アイギナ、サラミスへ移したと記しています。トロイゼンはペロポネソス半島の東端にあり、海を渡った先です。アイギナはつい先ごろまで争っていた相手でした。
この避難が、行き当たりばったりの脱出だったのか、あらかじめ組まれた計画だったのか。ここに一枚の石が絡みます。1959年、トロイゼンで、ある地元の農民が持っていた碑文入りの大理石板が地元の収集品に加えられ、それを見たペンシルヴェニア大学のM・H・ジェイムソンが翌年に内容を公表しました。トロイゼン碑文と呼ばれるこの石には、アテナイを退去して船で戦うという趣旨の決議が刻まれています。
本物であれば、退去は追い込まれた末の処置ではなく、海で決着をつけるために組まれた段取りだったことになります。ヘロドトスの叙述から読み取られてきた緊急避難という像とは、かなり印象が違います。一方で、前347年に弁論家アイスキネスがこの種の決議を読み上げたとデモステネスが述べていることから、後世に作られた文面ではないかという疑いも出されました。真贋の議論は公表から現在まで続いており、決着していません。
模式図です。海岸線・島の形・縮尺・距離はいずれも正確ではなく、位置関係も概略です。艦隊の進入方向と避難の矢印は、ヘロドトスの記述から一般に理解されている流れを示したもので、当日の航路そのものではありません。両艦隊の配置や水道内の小島の役割には諸説があります。
狭さは、条件つきで効く
ここでようやく当日の話になります。
ペルシア側の船数について、ヘロドトスは遠征の出発時点で1,207隻という数を挙げています。海戦の八年後に上演された悲劇『ペルシア人』も同じ1,207という数を出し、そこに快速船207隻を加えています。ただし出発時の総数と、嵐や先の海戦を経てサラミスに残っていた数は別のもので、近年の推計には600隻から800隻程度まで幅があります。
ギリシア側について、ヘロドトスは378隻と書いていますが、彼自身が挙げた各国の内訳を足すと371隻にしかなりません。『ペルシア人』は310隻としています。数はどれも揺れます。
それでも、揺れ幅を超えて言えることがあります。狭い水道では、横に並べられる船の数が場所の幅で決まります。三倍の船があっても、同時に舳先を向けられるのが同じ数なら、余った船は後ろで待つことになります。数の差が数の差として働くのは、海が広い場所だけです。
その狭い場所へ相手を入れる必要があり、ここでヘロドトスが伝えるのが、テミストクレスがシキンノスという人物を使者に立て、ギリシア側は仲間割れしていて夜のうちに逃げるつもりだと吹き込ませた、という話です。これも一つの伝えられ方であり、細部をそのまま事実として扱うことはできません。
焼かれた街に、二度戻る
勝った側が帰った先は、無傷の街ではありませんでした。アクロポリスの神殿はすでに焼かれています。しかも破壊は一度で終わりません。翌前479年、マルドニオスの率いる軍が再びアテナイに入り、ヘロドトスは、アテナイを焼き、残っていた城壁も家も神殿もことごとく覆し壊した、という趣旨を記しています。
つまりアテナイは、勝ったあとにもう一度焼かれてから、建て直しに入っています。パルテノン神殿として知られる建物が着工するのは、それよりさらにあとのことです。
この戦いを語る最も古い作品は、歴史書ではなく戯曲です。アイスキュロスの『ペルシア人』は前472年にアテナイで上演され、現存する最古の悲劇として残りました。しかもその筋立ては、勝った側の凱歌ではなく、敗れた側の宮廷に届く報せの形をとっています。作者が戦いの場に居合わせたとする見方は有力ですが、確定はしていません。
上演されたのは、二度焼かれた街を建て直している最中のアテナイでした。八年です。当日の矢印二本では見えないものが、この八年の側に残っています。海戦の勝ち方を覚えるより、その前に何を手放したかを一度たどるほうが、この出来事は長く残ります。
編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.08.15
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