金の犬釘は、傷がつかないよう軽く叩かれ、すぐに抜き取られました。
要点:1869年5月10日、ユタ準州のプロモントリー・サミットで、アメリカ最初の大陸横断鉄道がつながりました。式典で用いられた金の犬釘と月桂樹の枕木は、傷が残らないよう軽く叩かれたあと、その場で取り外されています。線路に残ったのは松の枕木と鉄の犬釘でした。最後の一打を担ったのは名前の伝わらない鉄道作業員で、その日の午前に最後のレールを据えたのは八人の中国人労働者だったと国立公園局は記しています。
金の犬釘、という言葉には、打ち込まれる光景が付いてきます。式典の写真も、槌を振り上げる姿を想像させます。けれども実際に行われたのは、そういう動作ではありませんでした。
アメリカ国立公園局(NPS)のゴールデンスパイク国立歴史公園の解説によれば、セントラル・パシフィック鉄道社長のリーランド・スタンフォードと、ユニオン・パシフィック鉄道副社長のトーマス・デュラントは、貴金属の犬釘に傷を一つも残さないように、銀メッキの槌でそっと触れました。月桂樹の枕木にはあらかじめ四つの穴が開けてあり、犬釘はそこへ差し込まれていたのです。打ち込むための釘ではなく、置くための釘でした。
その日の午前に起きていたこと
大陸横断鉄道は、1862年の太平洋鉄道法によって始まりました。西からはセントラル・パシフィックがサクラメントを起点に東へ、東からはユニオン・パシフィックがオマハを起点に西へ。両社が敷いた距離はそれぞれ690マイルと1,086マイル、合わせて1,776マイルにのぼります(ユニオン・パシフィック鉄道博物館の資料)。
出会う地点は、あらかじめ決められていませんでした。敷いた距離に応じて土地と国債が交付される仕組みだったため、両社は少しでも長く敷こうと競い合います。1869年4月28日、セントラル・パシフィックは一日で10マイル56フィートを敷設しました。夜明けとともに八人のアイルランド系の作業員がレールを運び、その後ろで400人を下らない中国人労働者が道床を突き固め、枕木を並べ、犬釘を打ち、レールを継いでいます。
そして5月10日の午前。最後のレールを所定の位置へ動かしたのは、八人の中国人労働者でした。磨き上げられた月桂樹の枕木が据えられ、貴金属の犬釘のための穴が開けられます。式典が始まるのは、そのあとです。
模式図/位置は概略。東西の区切りだけは両社が敷設した営業距離(690マイルと1,086マイル)の比にあわせてありますが、海岸線・州境・地形の形と位置は正確ではありません。山脈と湖は目印として置いたものです。
四本の犬釘と、抜き取られた枕木
この日のために用意された特別な犬釘は、四本ありました。サンフランシスコの実業家デイヴィッド・ヒューズが自分の金400ドル分で鋳造させたゴールデンスパイク、ネバダ州が銀25オンスから鍛えた銀の犬釘、アリゾナ準州が鉄の犬釘の頭を金メッキ・軸を銀メッキして仕立てた一本、そしてサンフランシスコの新聞社主が別に注文した二本目の金の犬釘です。枕木も特別で、カリフォルニア産の月桂樹をビリヤード台の製造業者が磨き上げたものでした。
式は、スタンフォードの演説から始まります。続いて演説する予定だったデュラントは、前夜の宴会が尾を引いた頭痛で辞退し、ユニオン・パシフィックの主任技師グレンヴィル・ドッジが代わりに短い言葉を述べました。そして銀メッキの槌で、貴金属の犬釘が軽く叩かれます。
その直後、貴金属の犬釘と月桂樹の枕木は取り外され、松の枕木と、三本の普通の鉄の犬釘に置き換えられた。
四本目の鉄の犬釘と、普通の鉄の槌には、電線がつながれました。打つ音が大陸横断電信の線を通じて全国へ届くようにするためです。ここからが、本当の最後の一打でした。
「DONE」を送ったのは、誰だったのか
スタンフォードが大きく振りかぶり、犬釘を外して枕木を叩きました。デュラントは、枕木にすら当てられませんでした。最後に犬釘を打ち込んだのは、居合わせた一人の鉄道作業員です。国立公園局の記述は「a regular rail worker(普通の鉄道作業員)」とだけ書いており、名前は挙げていません。
そしてウェスタン・ユニオンの電信技手W・N・シリングが、待たれていた三文字「D-O-N-E」を打電しました。1869年5月10日月曜、午後0時47分のことです。ニューヨークのシティ・ホール・パークでは祝砲が撃たれ、市長がサンフランシスコ市長へ祝電を送ったと伝えられます。
ここには一つ、細かな諸説があります。槌と犬釘を電線につないだ仕掛けが、打撃をそのまま全国へ中継したのか、それとも合図として使われただけなのか、という点です。鉄道史の資料館CPRR.orgは、槌が「DONE」の綴りを送ったわけではなく、打撃の信号を受けた電信技手がその語を打ち出したのだ、と説明しています。電信の向こう側にいた人々が「槌の音を聞いた」と感じたことと、機械がそのとおりに動いたかどうかは、分けて考えたほうがよさそうです。
名前が書かれなかった人たち
セントラル・パシフィックが当初雇ったのは、50人の中国人労働者でした。人手不足のなかで採用が広がり、国立公園局は完成までに関わった中国人労働者を1万人から1万2千人を超える規模と記しています。彼らは労働者だけでなく、職長・請負人・石工・大工・料理人・馬方・通訳・医療の担い手も務めました。
待遇には差がありました。賃金は白人労働者より平均でおよそ3割低く、宿舎・食事・道具・器具の費用は自弁です。1867年6月24日、カリフォルニアのシスコからトラッキーまで30マイルの区間で、中国人労働者が一斉に作業を止めました。当時のアメリカで最大の組織的な労働争議です。求めたのは賃上げ、11時間から10時間への労働時間の短縮、そしてトンネル内での交替時間の短縮でした。会社が食料と物資の供給を断ち、一週間でストライキは終わっています。
シエラネバダの花崗岩を貫くトンネル工事では、落盤・爆発・寒暑・暴力・雪崩が命を奪いました。正確な数はなく、1,000人を超える中国人労働者が亡くなったと推定されています。
彼らは「サイレント・スパイクス(沈黙の犬釘)」と呼ばれることがあります。アメリカにも中国にも、彼ら自身が書いた書簡や日記が現存を知られていないためです。ただし国立公園局は、沈黙の理由をそれだけに帰していません。会社の業務記録も、当時の新聞も、中国人労働者が働いていた事実は書いたのに個人名だけを落としました。20世紀に書かれた鉄道史も、その貢献をぼかしたり省いたりしてきた、と同局は記しています。
完成の13年後、1882年に中国人排斥法が成立します。1892年のギアリー法で更新され、1902年には恒久法となり、撤廃されたのは1943年でした。
残ったものと、残らなかったもの
式典の品々のその後は、まちまちです。ゴールデンスパイクはヒューズの手に戻り、1892年に彼の美術コレクションとともにスタンフォード大学へ寄贈されました。ネバダの銀の犬釘も、銀メッキの槌も、同大学へ渡っています。アリゾナの金銀の犬釘は2023年にクリスティーズで競売にかけられ、220万ドルを超える値がつきました。二本目の金の犬釘の行方は、いまも分かっていません。月桂樹の枕木はサクラメントで展示されたのち、サンフランシスコの社屋へ移され、1906年の地震と火災で建物ごと失われました。
つながった路線そのものについても、一つ補っておきます。この日結ばれたのはサクラメントとオマハで、どちらも海に面した港ではありません。文字どおり海岸から海岸まで鉄道でつながるのは、この先の延伸を待つことになります。「大陸横断」という言葉が指していた範囲は、私たちが思うより少しだけ内陸寄りでした。
金の犬釘が抜き取られたことを、演出の空しさとして読むこともできます。けれど別の読み方もあります。あの日いちばん長く線路に残ったのは、松の枕木と、名も無い鉄の犬釘のほうだった。列車が走るために必要だったのは、そちらでした。式典が終わって人が去ったあと、その上を最初の車輪が通っていったはずです。
編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.08.21
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