怪物が出てくるのは、24巻のうち4巻だけ。
要点:ホメロスの『オデュッセイア』は、前8世紀頃に成立したとされる24巻・約12,100行の叙事詩です。キュクロプス、キルケー、セイレーン——誰もが知る冒険は第9巻から第12巻に集まっており、しかも主人公が宴席で語る回想として置かれています。当のオデュッセウスは第5巻まで姿を見せず、後半の12巻は故郷に着いてから名を明かさずに進みます。ノーラン版の映画が公開されたこの機会に、詩そのものの設計を、成立当時の地中海の側から読み直します。年代・行数は校訂や資料により差があります。
クリストファー・ノーラン監督の『オデュッセイア』が、2026年7月17日に北米を含む全世界74の地域で封切られました。全米3,919館、全世界16,727館。7月19日までの三日間で全世界興行収入2億6,406万ドルを記録し、2026年公開の実写映画としては最大の出足だと報じられています。映画史上初めて全編をIMAXカメラで撮影した作品で、上映時間は172分。日本での公開は2026年9月11日です。
公開を待つあいだに原作を開いてみると、記憶と少し違う形をしていることに気づきます。私たちが「オデュッセイアといえば」と思い浮かべる場面は、詩全体のごく一部にしか置かれていないのです。
主人公は、第5巻まで出てきません
詩は24巻に分かれています。前8世紀頃に成立したとされ、いま読める形がいつ固まったのかについてはホメロス問題と呼ばれる議論が続いていますが、巻の区分そのものは古くから共有されてきました。最初の4巻は、オデュッセウスではなく息子テレマコスの話です。父の消息を探して旅立つ若者が主役で、この部分は「テレマキア」と呼ばれます。父の名は繰り返し語られますが、本人は登場しません。
オデュッセウスがようやく姿を見せるのは第5巻です。しかも、怪物と戦っている最中ではありません。女神カリュプソの島に留め置かれて、七年目の岸辺で泣いている場面から始まります。読者が最初に会う英雄は、動けなくなった英雄です。
怪物は「宴席の話」の中にある
では、あの冒険はどこにあるのか。第9巻から第12巻、オデュッセウスがファイアケス人の王宮でもてなされ、身分を明かして自分の身に起きたことを一人称で語る場面です。一つ目の巨人キュクロプス、人を豚に変える魔女キルケー、冥界訪問、セイレーンの歌、スキュラとカリュブディスの海峡。すべてこの四巻の中で、本人の口から語られます。
つまり構成としては、いちばん有名な部分が「回想」であり、「語り手が自分について語る話」でもあります。真偽を確かめる術は、聞き手にも読者にもありません。
図:巻の配分を等幅で示した模式図(各巻の行数は実際には均一ではありません)。区分の呼び方や区切りの置き方は研究者・注釈書により差があります。
残りの半分は、家の中の話です
第13巻でオデュッセウスはついにイタケの浜に降ります。詩はまだ半分残っています。ここから終わりまでの12巻——全体のちょうど半分——は、故郷での話です。
そして彼は、すぐには名乗りません。乞食の姿に身を変え、まず豚飼いエウマイオスの小屋に身を寄せ、屋敷では求婚者たちに侮られながら、誰が味方で誰がそうでないかを確かめていきます。妻ペネロペにも、長いあいだ正体を告げません。海の怪物との戦いが終わったあとに待っていたのは、自分の家に他人として入り込み、観察し、機を計る時間でした。
これは「帰る話」であるより前に、「名乗らない話」なのだと思います。
詩に混じっている、当時の海の匂い
この後半には、神話でも怪物でもない情景が挟まっています。第15巻、豚飼いエウマイオスは自分の生い立ちを語ります。彼はもともとシュリエという島の領主の子でしたが、屋敷にいた乳母がフェニキア人の船乗りに誘われ、その子を連れて船に乗った。船はやがてイタケに着き、赤子はラエルテス(オデュッセウスの父)に買われた——つまり彼は、さらわれて売られた王の子です。
フェニキア人は、当時の地中海で交易網を張っていた海の民です。誘拐と人身売買を含む生々しい商いの気配が、英雄譚の合間にこうして書き込まれています。加えてオデュッセウス自身も、正体を隠すあいだ何度も作り話を語ります。クレタ島の男を装ったその嘘話にも、船と交易と流浪の細部がふんだんに出てきます。
もっとも、ここは慎重に読むべき場所でもあります。トロイア戦争そのものがどこまで史実に対応するのかは定説がなく、キュクロプスの島やスキュラの海峡といった舞台の同定にも古来から諸説があって、確定していません。詩が写しているのは「その戦争の記録」ではなく、詩が形を整えていった前8世紀前後の海の暮らしのほうだ、と見るのが穏当でしょう。物語の骨は伝説から、肌ざわりは同時代から来ている、という読み方です。
ちなみに、嘘と変装で生き延びるこの主人公は、後世の創作でも「知略の人」の原型として使われてきました。アレクサンドロス大王の書記官カルディアのエウメネスを描いた漫画『ヒストリエ』でも、少年時代の主人公がオデュッセウスの物語に読みふける場面が置かれています(史実の記録にある設定ではなく、作品側の造形です)。
172分で、どこを選ぶか
ここまで見てくると、映画化がどれほどの選択を要する仕事かが見えてきます。24巻・約12,100行を172分に収めるには、削るだけでは足りません。回想として置かれているものを時間の順に並べ直すのか、それとも語りの入れ子を残すのか。前半で主人公を欠く四巻をどう扱うのか。半分を占める「名乗らない時間」に、どれだけ尺を割くのか。
答えは劇場にあります。日本公開は9月11日です。もし公開までに一度でも原作を通しておくなら、覚えておくと得なのは「あの怪物たちは、本人が語った話だった」という一点だと思います。それを知って観る三時間は、たぶん別のものになります。