教科書から「神風」が消えました。
要点:元寇(蒙古襲来)は、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の二度にわたるモンゴル帝国=元の襲来です。「二度とも神風が吹いて助かった」という覚え方が広く定着していますが、いまの日本史教科書は、少なくとも一度目についてはそう書いていません。出版社4社の記述を並べると、撤退の理由が見事に分かれます。何が消え、代わりに何が書かれたのか。1958年に気象学者が投げた疑問、博多湾に築かれた約20キロの石の壁、そして海の底から出てきた物証まで順にたどります。数値や日付は資料により幅があります。
「元寇は神風で撃退した」。学校でそう習った記憶をお持ちの方は、決して少なくないはずです。台風が二度も都合よく吹いて、世界最強といわれたモンゴルの大軍を海の底へ沈めた——物語としてよくできていますし、実際に長いあいだそう教えられてきました。
ところが、いま中学生や高校生が使っている教科書を開くと、その説明が見当たりません。消えたのは一度目、文永の役の「暴風雨」です。代わりに何が書かれているのかを見ていくと、教科書という乾いた文章が、研究の現在地をかなり正直に映していることが分かってきます。
1274年、博多湾でその日に起きたこと
元の皇帝フビライ・ハンは、南宋を攻めるにあたって、南宋と親しい日本を引き離そうと使者を送り続けました。鎌倉幕府と朝廷はこれを黙殺します。しびれを切らしたフビライが差し向けたのが、モンゴル軍と高麗軍からなるおよそ3万の軍勢でした。船団が博多湾に姿を現したのは、1274年(文永11年)10月20日、いまの暦でいう11月26日の未明と伝えられます。
上陸を許した幕府側は、いきなり苦戦を強いられました。理由のひとつは戦い方の違いです。名乗りを上げて一騎打ちに持ち込もうとする鎌倉武士に対し、元の兵は集団で取り囲んで射かけてきました。弓の射程も違い、「てつはう」と呼ばれる火薬を使った武器が爆音と煙を上げると、慣れない馬が怯みます。当時の日本にまだ火薬は伝わっていませんでした。
日没とともに幕府軍は退き、元軍も船へ戻ります。そして翌朝、船団は湾から消えていました。ここまでは、どの本もおおむね一致します。分かれるのは「なぜ消えたのか」からです。
4社の教科書は、こう書き分けている
歴史研究者の河合敦氏が nippon.com に寄せた記事に、日本史教科書の該当箇所を並べた一節があります。同じ出来事について、出版社ごとに撤退の理由が違うのです。
| 出版社 | 文永の役の撤退理由として書かれていること |
|---|---|
| 山川出版社 | 「元軍も損害が大きく、内部の対立などもあって退いた」 |
| 実教出版 | 「混成軍で、志気も低かった元・高麗軍が、不慣れな戦いによって損害をこうむり撤退した」 |
| 東京書籍 | 「御家人たちは、元軍の集団戦法に苦戦しながらも、多くの損害をあたえ、そのため元軍は退却した」 |
| 清水書院 | 「おりからの暴風雨もあって、征討軍はあっさり撤退した」 |
山川は元の内部事情、実教出版は軍の質、東京書籍は日本側の奮戦。三者三様で、いずれも風には触れていません。暴風雨を残している清水書院にしても、「暴風雨のために」ではなく「暴風雨もあって」と、原因のひとつに格下げした書き方です。
教科書が四つに割れているのは、書き手が迷っているからではありません。研究者のあいだに定説がない、という事実がそのまま印刷されているのです。
実際、フェリス女学院大学の筧雅博氏は、そもそも文永の役はモンゴル側にとって本格的な征服戦ではなく「威力偵察」にすぎず、上陸地にとどまって戦い続けるつもりは初めから無かったのだ、という説を提起しています。一方で九州大学名誉教授の服部英雄氏は、公家・藤原兼仲の日記『勘仲記』などの分析から、元軍は一日で去ったのではなく七日ほど滞在し、最後に暴風雨に遭ったと論じ、暴風雨の存在自体は肯定しています。撤退の理由は、いまも動いている論点です。
1958年、気象学者が投げた石
教科書から風が消えていく流れには、遠い出発点があります。気象学者の荒川秀俊が、1958年6月の雑誌『日本歴史』第120号に「文永の役の終りを告げたのは台風ではない」という論考を発表しました。タイトルがそのまま主張になっています。
言われてみれば単純な話で、文永の役の当日は新暦の11月下旬にあたります。九州北部に台風が来る季節ではありません。もし玄界灘が荒れたとすれば、それは台風ではなく、季節の変わり目に通る温帯低気圧や寒冷前線による強風だった、という見立てです。この指摘は、「神風=台風」という結び付きに最初のひびを入れました。以後の議論は、風があったかどうかではなく、それが何であり、どれほど決定的だったのかを問う方向へ移っていきます。
では、七年のあいだに何をしたのか
幕府は運を天に任せてはいませんでした。文永の役の翌々年、建治2年(1276年)、博多湾の海岸線に石を積んだ壁を築くことを決めます。石築地(いしついじ)、のちに元寇防塁と呼ばれるものです。総延長はおよそ20キロ。上陸できそうな砂浜を、端から潰していく発想でした。
福岡市の文化財情報によれば、生の松原地区で1968年に行われた発掘調査では、海へ向かう傾斜面に幅1〜1.5メートル、残る高さ1.8メートルまで石を積み上げ、その背後を粘土で補強していたことが判明しています。おもしろいのは石の種類で、西側は長垂海岸に見られるペグマタイト(花崗岩)、東側は小戸岬一帯の砂岩と、きれいに分かれていました。史料には、姪浜の防塁は肥前国、生の松原は肥後国が担当したとあり、この石材の境目が、そのまま国ごとの持ち場の境目だった可能性が指摘されています。九州各国に区間を割り振り、地元の石で積ませた——工事の段取りが、石の材質として地面に残っているわけです。
図:元寇の舞台となった北部九州の位置関係(模式図/位置は概略)。海岸線・島の形・縮尺・座標は正確ではありません。防塁の線は博多湾岸に築かれた石築地のおおよその範囲を示すもので、実際の全区間を描いたものではありません。
1281年、その風は確かに吹いた
二度目の襲来、弘安の役は規模が違いました。1281年(弘安4年)、朝鮮半島から向かった東路軍と、寧波から出た江南軍のふたてに分かれ、あわせておよそ14万。軍船は4,400艘とも伝えられます(内訳の人数・船数には資料により差があります)。
ところが今回、幕府軍は上陸を許しませんでした。石築地が砂浜をふさぎ、武士たちは前回の戦い方を研究したうえで、小舟で夜襲をかけるなどして元軍を海上に押し留めます。この状態が二か月近く続きました。そこへ、旧暦の七月末から閏七月にかけて——新暦でいえば8月下旬——大型の台風が九州を襲います。海上で待たされ続けていた船団は、逃げ場のないまま壊滅しました。
つまり、暴風雨そのものは作り話ではありません。ただし、それが効いたのは「上陸できずに二か月も洋上に釘付けにされていた」という前提があったからです。防塁がなければ、元軍は台風の前に陸へ上がっていたかもしれない。神風という言葉は、この順序を丸ごと省略してしまいます。
海の底に、証拠が残っていた
この台風の跡は、いまも水の下にあります。長崎県松浦市の鷹島南岸の海域は、元軍の船団が沈んだ地点として古くから伝えられ、漁師の網に壺や刀剣、碇石がかかることがありました。1980年から本格的な調査が始まると、船体の一部、陶磁器、漆製品、矢束、刀剣、冑などが大量に見つかります。
決定打は2011年秋でした。琉球大学の研究グループが、神崎免米ノ内鼻の沖合およそ200メートル、水深23〜25メートルの海底を1メートルほど掘り下げたところから、元の軍船を発見します。見つかったのは船底の背骨にあたる竜骨(キール)で、幅約50センチ、長さ約12メートル。ここから推定される船の全長は20メートル級と見られています。翌2012年3月27日、この海域は鷹島神崎遺跡として、海底遺跡では日本で初めて国の史跡に指定されました。
絵巻と古文書でしか触れられなかった出来事に、実物が加わった格好です。歴史が書き換わるとき、こういう地味な作業が下支えしていることは、あまり語られません。
それでも「神風」が残ったのは
では、なぜ神風という言葉だけが生き延びたのでしょうか。元寇のあいだ、朝廷や幕府は各地の寺社に怨敵退散の祈祷をさせていました。伊勢神宮には勅使が派遣され、風雨をつかさどる神を祀る風神社にも参詣しています。戦いのあと、この神が猛風を吹かせたのだという評判が立ち、朝廷は1293年にこの社の格を上げて「風日祈宮」としました。筥崎八幡宮や諏訪大社なども、効験があったとして格上げされています。
祈った側にとって、風が吹いたことは祈りが届いた証でした。そこから「日本は神国であり、いざとなれば神風が吹く」という考え方が広まっていきます。この思想が六百数十年後にどう使われたかは、あらためて書くまでもないでしょう。
付け加えれば、戦いに勝った側の内情も明るくはありませんでした。当時の恩賞は土地を与えることでしたが、外国との戦争では新たに分ける土地が出ません。出費は自弁です。御家人の困窮は進み、それが幕府の屋台骨を静かに削っていきました。
教科書の記述が変わったと聞くと、「昔の教育は間違いだったのか」と身構えたくなるかもしれません。けれども、この件で起きたのはもう少し健全なことです。気象学者が季節を指摘し、考古学者が海に潜り、歴史学者が公家の日記を読み直した。その積み重ねが、断定を「諸説あり」に、単一の原因を四通りの記述に押し戻したのです。まだ定説はありません。だからこそ、教科書はいまの状態を正直に書いています。
もし手元に自分の使っていた教科書が残っていたら、元寇のページだけでも開いてみてください。あなたが覚えている一文が、そこにどう書かれていたのか。記憶とのずれの幅が、この五十年ぶんの研究の距離になります。