出来事・世界史 — 2026.09.19 NO.084 / TSUGINOTE LEARN

ヴァスコ・ダ・ガマの往復は、地球一周より長い距離を進み、
戻り着けたのは、およそ三人に一人だった。

赤い十字の帆を掲げた3隻の帆船が、切り立った岩壁の海岸線沿いを荒波の中で進むイラスト。乗組員の姿も見える

要点:1497年7月8日、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは4隻の艦隊でリスボンを出航し、喜望峰を越えてインド航路を開拓した。艦隊が進んだ往復の距離は、地球一周の長さを上回ったと英語版ウィキペディアは伝える。乗組員の数は資料により147人とも170人とも記されるが、リスボンに帰り着けたのはいずれもおよそ55人。数にすれば、三人のうち二人は戻らなかった計算になる。持ち帰った香辛料は大きな利益をもたらしたと伝わる一方、2026年のいまも、紅海の情勢によって多くのコンテナ船が同じ喜望峰回りの航路を選んでいる。

1497年7月8日、ポルトガル・リスボンの港を四隻の帆船が離れた。率いるのはヴァスコ・ダ・ガマ、目指すのはインド航路の開拓である。往復の距離は、地球一周の長さを超えていたと、後年の記録は伝える。

地球を一周する距離を、船で行く

艦隊はサン・ガブリエル号、サン・ラファエル号、小型のベリオ号、それに補給用の貨物船からなる。日本語版ウィキペディアが参照する研究書は乗組員をおよそ147人と記し、英語版ウィキペディアは170人と記す。数字が一つに定まらないのは、乗組員の名簿そのものが現存していないためだという。カナリア諸島、ヴェルデ岬諸島を経て、現在のシエラレオネ沖まで南下したところで、ダ・ガマは沿岸を離れ、大西洋のただ中へ舵を切った。赤道を越えて南半球に入り、偏西風をつかまえるための大きな迂回である。この間、艦隊はおよそ3か月、陸地を見ないまま外洋を進んだという。1497年11月9日、艦隊はふたたびアフリカの海岸に姿を現した。11月22日には喜望峰を通過し、12月17日、先にバルトロメウ・ディアスが到達していたインファンテ川(グレート・フィッシュ川)を越える。20日、追い風を受けて出発したその先は、ヨーロッパ人がまだ見たことのない海域であった。

案内人は、キリスト教徒ではなかった

アフリカ東岸ではモザンビーク、モンバサと寄港を重ねたが、いずれも武力を交えるほどの緊張を伴った。モザンビークでは水を求めて住民に発砲し、2人を死なせ、船2隻とその積荷を奪っている。1498年4月、友好的だったケニアのマリンディで、ダ・ガマはようやく水先案内人を得た。国王にあらかじめ求めていた「キリスト教徒の案内人」だと一行は信じ込んだが、実際はヒンドゥー教徒のインド人だったという。案内人の知識に導かれた艦隊は、マリンディからインド洋を直接横断し、5月17日にデリ山を遠望、5月20日、インド南西岸カリカット近郊のカッパドに錨を下ろした。

手土産は、宮廷の目にも粗末だった

5月28日、ダ・ガマは13人の部下を連れて上陸し、翌日カリカット国王に謁見した。持参したのは布地、外套12着、帽子6個、珊瑚、真鍮の水盤6個、砂糖一樽、バターと蜂蜜二樽である。

これは王への贈り物ではない。この街にやってくる一番みすぼらしい商人でも、もう少しましなものを用意している。

王の役人とイスラム教徒の商人たちは、そう言って笑ったと伝わる。ダ・ガマは「私は商人ではなく大使なのだ。これはポルトガル王からではなく、私個人の贈り物だ」と苦しい弁明をしたという。8月、帰国の許しを求めた使者は監禁され、出航も禁じられた。ダ・ガマは19人の住民を拘束して人質とし、砲撃をちらつかせて交渉した末、8月29日にようやく出航している。70隻ほどの武装した小舟が追ってきたが、砲撃で振り切った。それでも持ち帰った胡椒とシナモンは、ヨーロッパで大きな利益を生んだという。「船の科学館」の解説記事は、渡航費用の60倍にあたる利益がポルトガルにもたらされたと紹介しているが、当時の帳簿そのもので確認された数字ではない。

同じ海を、行きは26日、帰りは89日で

季節風の吹く時期を外れて出航したことが、帰路を過酷にした。カナノール王国で友好的に迎えられたのち、9月にアンジェディヴァ諸島で追跡してきた船団を退けた艦隊は、10月上旬、あらためてインド洋の横断に踏み出す。行きにおよそ26日で渡った同じ海を、帰りはおよそ89日かけて渡ったことになる。すでに壊血病でおよそ30人を失っていた一行は、この航海だけでさらに30人ほどを亡くしたと伝わる。1499年1月2日にアフリカ東岸へたどり着き、1月9日にマリンディへ入ったときには、三隻を操るだけの人手がもう残っていなかった。ダ・ガマはサン・ラファエル号を焼き捨て、生き残った乗組員を残る二隻に移している。

戻り着いたのは、三人に一人ほどだった

1月27日にマリンディを離れた艦隊は、2月にモザンビーク、3月20日には往路と逆向きに喜望峰を越え、4月25日、西アフリカの海岸に達した。ここでベリオ号が分かれ、7月10日、先にリスボンへ帰り着いている。ダ・ガマ自身は、道中で重い病にかかった兄パウロに付き添うためカナリア諸島にとどまり、パウロを見送ってから帰路についた。ダ・ガマがリスボンに着いたのは、8月29日にカナリア諸島を発ったあと、9月に入ってからだったとみられるが、正確な日付は伝わっていない。出発した人数も帰り着いた人数も、資料によって幅がある。日本語版ウィキペディアが参照する生田滋の研究は出発147人・帰国55人と記し、英語版ウィキペディアは出発170人・帰国およそ55人と記す。いずれにしても、戻り着けたのはおよそ三人に一人ほどだったことになる。四隻あった船のうち、リスボンに帰り着いたのは二隻だけだった。

年月日できごと
1497年7月8日リスボン出航(4隻・乗組員147〜170人)
1497年11月9日大西洋の大迂回を経てアフリカ沿岸へ再上陸
1498年5月20日カリカット(インド)着
1498年8月29日カリカット発
1499年1月9日マリンディ帰着。サン・ラファエル号を焼却
1499年3月20日復路で喜望峰を通過
1499年7月10日ベリオ号、リスボン帰着
1499年9月ごろダ・ガマ、リスボン帰着(正確な日付は不明)

喜望峰の回り道は、いまも現役だ

地球の赤道はおよそ4万75キロメートルとされる。ダ・ガマの往復はこれより長かったと英語版ウィキペディアは伝える。今の旅客機の巡航速度、時速およそ850〜900キロメートルで単純に割ると、同じ距離はおよそ44〜47時間、丸2日足らずで着く計算になる(そのような直行便は実在せず、あくまで距離を速度で割っただけの目安である)。当時は寄港と足止めを重ねながら、出航から帰着までおよそ2年1か月を費やしている。

もう一つ、今に近い数字がある。2026年、紅海でのフーシ派による攻撃を理由に、多くのコンテナ船がスエズ運河を避け、喜望峰回りへ戻っている。独立行政法人日本貿易振興機構(ジェトロ)が2026年3月13日に配信した記事によれば、この迂回は2026年3月上旬時点でも大きな変動なく続いているという。航海速度から試算した目安では、喜望峰ルートはおよそ34日・2万5000キロメートル、スエズ運河ルートはおよそ26日・1万8500キロメートルで、迂回によって日数は8日前後延びるとされる。500年以上前にダ・ガマが命がけで切り拓いた回り道を、今の商船もまだ選んでいる。

この航海の功績で、ダ・ガマはのちにインド提督の地位を得ている。だが最初の航海が持ち帰ったものは、栄誉だけではなかった。地球を一周してなお足りない距離と、三人に二人という数字も、同じ船に積まれていた。

出典:Wikipedia英語版「Vasco da Gama」/Wikipedia日本語版「ヴァスコ・ダ・ガマ」(出典として生田滋著・増田義郎編『大航海者の世界Ⅱ ヴァスコ・ダ・ガマ 東洋の扉を開く』原書房、1992年、を多く参照)/船の科学館「今日の海の日」(渡航費用60倍の利益について)/ジェトロ「紅海・スエズ運河における通航量は大きな変動なし、喜望峰ルート迂回が継続」(2026年3月13日配信)。喜望峰ルートとスエズ運河ルートの日数・距離の目安は、平均航海速度16.48ノットとした試算による。本紙が2026年9月19日に上記の各ページを直接確認した。関連:喜望峰
EDITOR'S NOTE — トキ:この題材で気になったのは、贈り物が笑われた男が、それでも引き返さなかったことである。金も銀も持たず、詫びの言葉すら苦しかったのに、船底には胡椒が積まれていた。地球一周ぶんの距離と、三人に二人という数字は、栄誉の記録である以上に、値切られながら押し通した航海の記録として読める。

編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.09.19
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