マゼラン、「世界一周」を見ずに死んだ。生還は18人。
要点:1519年、マゼランはスペインを発ち、西回りでモルッカ諸島を目指した。だが世界を一周して戻った船ビクトリア号に、マゼラン自身は乗っていなかった。フィリピンのマクタン島で命を落としたためである。出航した237〜270人のうち、生還はおよそ18人。航海の総距離はピガフェッタの記録でおよそ6万マイル、地球の円周の2.4周分にあたる。今の旅客機の速度に単純換算すると、空を飛び続けてもおよそ4.5日分の距離である。
浅瀬に乗り上げた小舟から、男たちが海に降りて盾を構えた。1521年4月27日、フィリピン・マクタン島の浜には、火縄銃とクロスボウで武装した一団が立っていた。率いていたのは、ポルトガル生まれの航海者フェルディナンド・マゼランである。彼が目指していたのは、西回りでたどり着く香辛料の島だった。だがこの日、マゼランはその島へたどり着く前に、この浜で生涯を終える。
なぜ西へ向かったのか
当時のヨーロッパで、クローブ(丁子)やナツメグといった香辛料は高値で取引されていた。産地であるモルッカ諸島(現在のインドネシア東部)への航路は、ポルトガルがアフリカ南端・喜望峰回りで押さえていた。マゼランはポルトガル王に航路変更の支援を断られ、代わりにスペイン国王カルロス1世(のちの神聖ローマ皇帝カール5世)の援助を取りつける。西へ進めば、スペインとポルトガルが分割した勢力圏の、まだ誰も確かめていない側からモルッカ諸島へ出られるはずだという賭けだった。
1519年8月10日にセビリアを出た船団は、同年9月20日、大西洋への最終出航地サンルーカル・デ・バラメダ港を離れた。トリニダード・サン=アントニオ・コンセプシオン・ビクトリア・サンティアゴの5隻。乗組員の人数は資料によって幅があり、237人・240人・270人のいずれかとする記録が並んでいる。正確な名簿が今に伝わっていないためで、本紙もどれか一つに断定はしない。
海峡を見つけ、太平洋で消耗する
船団は南米大陸の東岸を南下し、1520年、のちに「マゼラン海峡」と呼ばれる水路を見つけて太平洋側へ抜けた。だがその先に広がる海は、想定よりはるかに広かった。食料は尽き、壊血病が乗組員を襲う。記録係アントニオ・ピガフェッタの航海記には、太平洋横断の間に十数名から二十数名が命を落としたという記述が残る。ここでも人数の数え方は史料によって揺れており、正確な一本の数字は定まっていない。
マクタン島での最期
1521年3月、船団はフィリピンに到達する。セブ島の首長をキリスト教に改宗させたマゼランは、従わなかった隣島マクタンの首長ラプラプを屈服させようと兵を進めた。浅瀬に阻まれて船は沖に留まらざるを得ず、上陸した兵はわずか四十数名。隊列が乱れたところへ、ラプラプ側の反撃を受ける。毒矢で足を射られて動けなくなったマゼランは、そこで討ち取られたと伝わる。享年41、あるいは42とされる。
帰り着いた船は、1隻だった
マゼランを失った船団は、それでも西へ進み続けた。モルッカ諸島に到達し、目的だったクローブを積み込んだのは、残った船のうちビクトリア号とトリニダード号である。だがトリニダード号は帰路で損傷し、断念した。最後まで航海を続けたビクトリア号は、インド洋を渡り、アフリカ南端を回り、1522年9月、出発したのと同じスペインの港に帰り着いた。指揮を執っていたのは、バスク出身の航海士フアン・セバスティアン・エルカーノである。
| 段階 | 人数のおおよそ | 出典の幅 |
|---|---|---|
| 1519年、出航時 | 237〜270人 | 資料により差がある |
| 1521年、マクタン島で死亡 | マゼランを含む複数 | 戦闘の死者数は資料で揺れる |
| 1522年、セビリアに帰還 | およそ18人 | 19〜22人とする資料もある |
生還者の数も、18人とする記録が多い一方、乗員以外の現地出身者を含めて19人から22人とする資料もある。誰を数えるかで答えが変わる点は、トキがこれまでも繰り返し書いてきた歴史の数字の癖と同じである。はっきりしているのは、出発した船5隻のうち4隻が失われ、帰り着いた1隻に乗っていたのが、出発した人数のごく一部だったという事実だけである。
世界を一周したのはビクトリア号であり、エルカーノであり、生き残った18人ほどの乗組員だった。計画を立て、航海を率いたマゼランは、その達成を見ていない。
この距離を、今に置き換える
ピガフェッタは航海の総距離を「1万4,460リーグ」と記録している。これは当時の換算でおよそ6万マイル、キロメートルに直せば9万6千キロあまりにあたる。地球の円周(赤道上でおよそ4万75キロ)と比べると、地球をおよそ2.4周したのと同じ距離である。
この距離を、今の移動手段に置き換えてみる。現代の旅客機の巡航速度(時速およそ900キロ)で単純に割ると、休まず飛び続けてもおよそ107時間、日数にしておよそ4.5日分の飛行距離になる。国際宇宙ステーション(秒速およそ7.7キロ、時速にしておよそ2万7,600キロで地球を周回している)の速度に換算すれば、同じ距離をわずか3.5時間ほどで移動できる計算になる。3年近くかかった航海と、3.5時間という数字の落差が、当時の航海がどれほど遅く、どれほど過酷だったかを物語る。
積荷の利益は、諸説ある
ビクトリア号が持ち帰ったクローブは、積まれた袋の数だけでも五隻すべてを合わせた建造費を上回る値打ちがあったという見方がある。一方で、18世紀以降の研究者による推計の中には、遠征全体の収支を計算し、投資額に対しておよそ4パーセント程度のわずかな黒字にとどまったとするものもある。乗組員への未払い賃金の清算を考慮すればさらに目減りするという指摘もあり、この遠征が商業的にどれほど成功だったかは、今も見方が割れている。
世界一周を成し遂げたのは、誰か
「史上初めて世界を一周した人物」という称号を、マゼラン本人に与えてよいかどうかには議論がある。一周という行為を完遂したのはエルカーノと18人ほどの乗組員であり、マゼラン自身は半分ほどの行程で世を去っているからである。マゼランの通訳として同行していたマラッカ出身の奴隷エンリケは、かつて主人であったマゼランに連れられて一度ヨーロッパへ渡った経歴があり、マクタン島で生まれ育った地域の近くまで戻ってきていた。ここに「出身地に戻った時点で、エンリケこそが世界を一周した最初の人間だ」とする見方を示す歴史家もいる。裏の取れる一次史料は限られており、本紙もこれを定説としては扱わない。
確かなのは、計画を立てた者と、それを成し遂げた者が、必ずしも同じではないということである。航海の名を背負っているのはマゼランだが、水平線の向こうを実際に見届けたのは、彼が率いた、名前の多くが今では忘れられている18人ほどの船員たちだった。
編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.10.24
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