江戸時代の日本には、外につながる口が四つありました。一つは蝦夷地の松前です。
要点:江戸時代の日本が外とつながっていた窓口は、長崎口・対馬口・薩摩口・松前口の四つに整理されます。オランダと中国を相手にしたのは長崎だけで、朝鮮は対馬藩、琉球は薩摩藩、蝦夷地のアイヌとの交易は松前藩が担いました。幕府が直接握っていたのは一つで、残る三つは藩に委ねられています。しかも「鎖国」という言葉が生まれたのは1801年、「四つの口」という呼び名が使われはじめたのは1981年とされます。順番は、実際の窓口が先で、名前があとです。
「鎖国」と聞いて絵が浮かぶとすれば、たいてい出島でしょう。扇のかたちをした人工島に蔵が並び、湾に帆船が一隻。日本が閉じていた時代の、たった一つの隙間として描かれる場所です。
ただ、その一枚の絵は四分の一の絵です。しかも残りの三つは、幕府ではない誰かが持っていました。
四つを、担い手と相手で並べる
まず整理だけを置きます。窓口は四つあり、それぞれ担い手が違いました。
| 口 | 担い手 | 相手 | 主な場所 |
|---|---|---|---|
| 長崎口 | 幕府(直轄) | オランダ・中国 | 出島・唐人屋敷 |
| 対馬口 | 対馬藩(宗氏) | 朝鮮 | 対馬・釜山 |
| 薩摩口 | 薩摩藩(島津氏) | 琉球王国 | 薩摩・琉球 |
| 松前口 | 松前藩 | 蝦夷地のアイヌ | 松前・蝦夷地各地 |
四つのうち幕府が直接握っていたのは長崎だけです。ほかの三つでは、藩が相手と向き合い、幕府はその上に乗っていました。
相手の性格も一様ではありません。四つの口という整理では、長崎で行われたことを通商、対馬と薩摩を通じて行われたことを通信と呼び分けます。品物のやりとりと、使節のやりとりの違いです。そして松前が向き合った蝦夷地は、当時の枠組みでは異国ではなく異域として扱われました。国と国の関係ではない、という扱いです。
出島の広さを、坪で見る
長崎口には、二つの区画がありました。
寛永18年(1641年)、平戸にあったオランダ商館が長崎の出島へ移されます。出島はその前年までポルトガル人を収容していた埋立地で、扇形をしており、面積は3,969坪、およそ1.5ヘクタールと伝えられます。
もう一方が唐人屋敷です。密貿易への対策として元禄元年(1688年)に建設が始まり、翌1689年に完成しました。竣工当時で6,900坪余、のちに拡張されて宝暦のころには9,373坪あったとされます。周囲を塀と堀と竹垣で三重に囲み、一度に2,000人から3,000人の中国人を収容できたと伝わります。
数字を並べると、順序が入れ替わります。長崎口のうち面積が大きいのは中国側で、出島はその半分ほどの広さしかありません。オランダの窓口を「鎖国」の代表として置く見方は、後世の視点に寄っています。
海岸線は Natural Earth(10m・パブリックドメイン)をランベルト正角円錐図法で投影したもので、松前・対馬(厳原)・長崎・鹿児島・那覇・釜山・寧波・江戸の位置も緯度経度から算出しています。ただし線はすべて概略です。矢印は品物と使節が行き交った方向を示したもので、実際の航路や道中ではありません。オランダ船の矢印は南方の海路を指しているだけで、出航地を示すものではありません。国境は描いていません(現代の境界を当時の図に重ねると誤読を生むため)。
対馬の口は、海の向こう側にもあった
対馬口には、少し変わった形があります。窓口が日本側だけに置かれていないのです。
朝鮮からの使節は朝鮮通信使と呼ばれ、1607年から1811年までのあいだに12回来日しました。正使・副使のほかに儒学者、医師、画家を含み、総勢500人を超えることもあったと伝えられます。
一方、幕府からの返礼の使節は対馬藩が代行しました。朝鮮側が漢城まで上ることを認めなかったため、返礼の儀式は釜山に置かれた草梁倭館で行われています。つまり対馬口は、対馬と釜山の両方に足を置いた仕組みでした。宗家の文書は対馬・長崎・江戸・釜山にまたがって残り、通信使に関する日韓双方の資料は2017年にユネスコの「世界の記憶」に登録されています。
窓口を四つ数えるとき、そのうちの一つは、国境の向こう側に部屋を持っていました。
18回と、61か所
残る二つは、回数と場所の数で性格が見えます。
薩摩口では、琉球から江戸へ使節が上りました。江戸上りと呼ばれ、1634年から1850年までに18回行われています。国王が即位したときに送られる謝恩使と、将軍が職を継いだときに送られる慶賀使の二種類があり、島津氏が先導する行列は総勢500人から600人に及んだと伝えられます。
松前口は、回数ではなく場所の数で表されます。松前藩の領地は米が穫れないため、藩主は家臣に石高ではなく交易の権利を与えました。1630年ごろに成立したこの仕組みは商場知行制と呼ばれ、蝦夷地61か所の交易地を家臣が管轄してアイヌと取引しました。アイヌ側は、それ以外の相手との自由な交易を禁じられています。
1720年ごろになると、権利を与えられた家臣が商人に交易を請け負わせる場所請負制が広まりました。1774年には藩主自身が抱えた5,400両の債務の整理として、四つの漁場が請負に回されています。窓口の運営が、藩から商人の手へ移っていった記録です。
名前は、あとから来た
ここまで見てきた四つの窓口には、当時それをまとめて呼ぶ言葉がありませんでした。
「鎖国」という語が使われた最も古い例とされるのは、蘭学者志筑忠雄が享和元年(1801年)に訳述した『鎖国論』です。もとになったのは、出島の商館医だったケンペルの『日本誌』の付録第六章でした。ケンペル自身は自国民の出国と外国人の入国・交易を禁じている、という趣旨を書いているだけで、「鎖国」という語は使っていません。ラテン語で書かれた原稿が英語、フランス語、オランダ語と訳され、そのオランダ語版から志筑が訳した段階で生まれた言葉だとされます。
そして「四つの口」という呼び方も、後から来ています。この呼称は1981年に歴史学者の荒野泰典が用いたのが最初とされ、現在は高校の教科書にも使われる用語として定着しました。1960年代までの学界では近世日本は国を閉ざしていたとする見方が定説でしたが、その後の研究によって、対外関係が幕府に管理されていたという理解が通説に変わっています。
つまり、私たちが江戸時代の対外関係を語るときに使う言葉は、どちらも当時の人のものではありません。閉じていたという像を作ったのが1801年の訳語で、その像を組み替えるために置かれたのが1981年の整理です。
四つに数えると、こぼれるもの
整理は便利で、便利なぶん取りこぼします。
琉球は薩摩藩の下に置かれた一方で、中国の王朝に朝貢もしていました。四つの口の図では薩摩と琉球を一本の線で結びますが、その線の先はもう一方へも伸びています。蝦夷地のアイヌは異域の側に置かれ、国と国の関係としては数えられませんでした。線を引くとき、どこを国と見るかがすでに決まっていた、ということです。
教科書で「四つの口」に出会ったら、四つを覚えるところで止めずに、誰が担い手だったかを一つずつ当てはめてみてください。幕府が一つ、藩が三つ。この配分だけで、閉じていたという言葉の輪郭が変わります。
編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.08.18
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