出来事・日本史 — 2026.09.12 NO.082 / TSUGINOTE LEARN

本能寺で自害した信長の亡骸を、
光秀の軍勢も、最後まで見つけられなかった

黒地に家紋をあしらった甲冑姿の武将が、天守と城下町を見下ろす回廊に立ち、背後には家臣や整列する兵たちの姿が見えるイラスト

要点:1582年6月21日未明(旧暦・天正10年6月2日)、京都・本能寺に滞在していた織田信長は、家臣・明智光秀の謀反によって命を落とした。信長は遺骸を敵に渡すなと言い残して自刃したと伝わるが、明智の軍勢がその後どれだけ焼け跡を捜しても、遺体は見つからなかった。光秀も捕虜に行方を尋ねたが、分からずじまいだったという。焼け跡から特定の遺骸を判別することが当時の調査能力では難しかったとする指摘のほか、家臣が火葬して隠したとする説、京都・阿弥陀寺が密かに遺骨を引き取ったと伝える寺伝など、複数の言い伝えが残っている。

炎に包まれた寺の奥で、一人の男の姿が消えた。追っ手はそのあと、焼け跡のどこを探しても、彼を見つけることができなかった。1582年6月21日未明、京都・本能寺で自刃したと伝わる織田信長の最期は、遺体の所在という一点だけが、いまも定説を持たない。

天下人、油断の夜

その年の3月、信長は宿敵・武田勝頼を天目山で滅ぼし、長年の懸案だった東国の脅威をほぼ取り除いていた。5月29日、信長は安土城の留守居衆に「戦の用意をして待機せよ」とだけ命じ、供回りをほとんど連れずに京へ上り、定宿としていた本能寺に入った。翌6月1日には公家や僧侶ら40名を招いて茶会を開き、安土からわざわざ運ばせた38点の名物茶器を披露している。茶会のあと酒宴となり、隣接する妙覚寺に滞在していた嫡男・信忠も合流して酒を酌み交わした。深夜、信忠が引き上げたあとも、信長は寂光寺で本因坊算砂らの囲碁の対局を見物してから床についたと伝わる。上洛の目的は明らかでないが、堺・大坂への遊覧や、朝廷との交渉のためだったとする見方がある。西国の毛利氏を討つ出陣は、早くとも数日後とみられていた。

謀反の朝

信長を討ったのは、家臣の明智光秀である。光秀は6月1日、丹波亀山城から1万3,000ほどの兵を率いて出陣した。表向きは中国地方への援軍とされていたが、老ノ坂を越えたあたりで進路を京へ向け、桂川を渡ったところで兵に戦闘準備を命じている。本能寺を実際に包囲した人数を記す史料は少なく、『祖父物語』はこれを3,000余騎とする。6月2日の未明、明智勢は本能寺を完全に取り囲んだ。

『信長公記』によれば、信長と小姓衆は最初、この騒ぎを下々の喧嘩だと思っていた。だがまもなく鬨の声が上がり、御殿に鉄砲が撃ち込まれる。信長は「謀反か、誰の仕業か」と森蘭丸に問い、「明智の軍勢と見受けます」との報告を受けると、「是非に及ばず」とだけ答えたという。弓を取って応戦したが弦が切れ、次いで槍で戦ったところ右肘に傷を負い、奥へ退いた。すでに御殿には火が放たれていた。信長は女房衆に脱出するよう告げ、内側から納戸を締めて自刃したと伝わる。戦闘が終わったのは、辰の刻、おおよそ午前8時ごろのことだった。

息子も、同じ日に

信忠は、光秀謀反の報を受けて本能寺に駆けつけようとしたが、家臣に止められ、隣接する二条御新造に移って抗戦した。正午ごろ、明智勢1万が押し寄せる。信忠方はおよそ500から1,500ほどで、一時は敵を三度撃退するほど奮戦したというが、多勢に無勢で次第に押し込まれた。信忠は「雑兵の手にかかって死ぬのは無念」と述べて自刃を選び、家臣に遺骸を床下に隠すよう命じたと伝わる。御新造もまた焼け落ち、その遺骸は建物とともに失われた。

光秀が探しても、見つからなかった

戦いが終わったあと、明智勢はしばらく信長の遺体を探した。だが見つからない。光秀も不審に思って捕虜にあれこれ尋ねてみたが、結局、行方は分からずじまいだったと『当代記』は伝える。当時、本能寺の南側近くにあった南蛮寺(教会)の宣教師たちがこの様子を遠巻きに見ていたとされ、彼らの証言を記した『イエズス会日本年報』には、信長がどのように死んだのかは火の勢いが大きすぎて分からなかった、と記されている。

遺体が見つからなかった理由について、後年の研究者からは、日本の木造の大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中から、当時の調査能力で特定の人物の遺骸を判別するのはそもそも難しかったのではないか、という指摘がある。『祖父物語』には、森蘭丸が信長の遺骸に畳を5、6帖かぶせたという記述もあり、宣教師の証言にある「灰燼に帰した」という見立てと符合する。

言い伝えは、いくつも残った

正史に埋葬地の記録がないぶん、後世にはいくつかの言い伝えが積み重なった。もっとも知られるのが、京都・阿弥陀寺の寺伝である。変が起きたと聞いた玉誉清玉という僧が、僧20名を連れて本能寺に駆けつけたが、すでに信長は自刃したあとだった。ところが墓の裏手の藪で、家臣たちが遺骸を火葬しようとしている場面に行き会い、遺言どおり遺骸を敵に渡さないためだと聞いた清玉は、自らの手で荼毘に付し遺骨を持ち帰ることを申し出て、阿弥陀寺へ運んだという。ただしこの由緒書は、もとの記録が失われたのち、享保16年(1731年)に記憶を頼りに書き直されたとされ、史料としての価値は高くないという見方が強い。それでも阿弥陀寺には現在も「織田信長公本廟」が伝わっている(寺は天正15年に現在地へ移転している)。

ほかにも、信長の側室の一人が6月6日に美濃・崇福寺へ信長・信忠の霊牌(位牌)を持ち込んだという記録があり、これが確認できる範囲ではもっとも早い供養の記録とされる。高野山金剛峯寺には信長の供養塔も残る。いずれも遺骸そのものの所在を確定するものではなく、供養や伝承のかたちで信長を弔った記録である。

見つからなかったのは、遺体である。信長が討たれたという事実そのものは、その日のうちに京の内外へ伝わっていた。

興味深いのは、2007年に行われた本能寺跡の発掘調査である。現在の本能寺は変のあと秀吉の手で移転しており、事件当時の本能寺は別の場所にあった。調査では、変と同時期とみられる焼け瓦や、堀・石垣の遺構が確認されている。事件の舞台そのものの位置さえ、長く記憶と伝承に頼らざるを得なかったことになる。

年月日できごと
1582年3月11日武田勝頼・信勝父子が天目山で自害
1582年5月29日信長、本能寺に入る
1582年6月2日未明
(西暦6月21日)
本能寺の変。信長、自刃
同日正午ごろ嫡男・信忠、二条御新造で自刃
1582年6月6日側室が信長・信忠の霊牌を崇福寺(美濃)へ
1582年6月13日山崎の戦いで光秀敗死
1587年(天正15年)阿弥陀寺、上京区へ移転
2007年本能寺跡の発掘調査で堀・石垣の遺構を確認

なぜ、いまも見つからないのか

大きな木造の建物が炎に包まれ、追っ手が到着したときにはすでに手遅れだった、というだけの話であれば、これほど言い伝えは増えなかったかもしれない。だが信長の死は、当時の権力の空白そのものに直結していた。遺骸が見つからなければ、生存を疑う声を完全には封じられない。実際、光秀は近江の武将にすら協力を拒まれる場面があり、これが不利に働いたとする指摘もある。遺体という物証の不在は、直後の政局にまで影を落としていたことになる。

444年たったいまも、信長の遺骸がどこへ行ったのかを一つに決める記録は見つかっていない。分かっているのは、あの夜、本能寺という一つの場所に、彼がいたということだけである。

出典:Wikipedia日本語版「本能寺の変」SamuraiWiki「Honno-ji Incident」。焼け跡からの発見が困難だったとする指摘、および阿弥陀寺の由緒書の史料的価値についての評価は、いずれも上記Wikipedia日本語版の記載による。本紙が2026年9月12日に上記の各ページを直接確認した。関連:関ヶ原の戦い本能寺の変
EDITOR'S NOTE — トキ:この題材で気になったのは、「見つからなかった」という一点だけがこれほど多くの言い伝えを生んだことである。焼け跡から遺骸が出なかったこと自体は、当時の技術ではありふれた結末だったのかもしれない。それでも人は空白を埋めたがる。阿弥陀寺の由緒書も、崇福寺の霊牌も、空白をそのままにしておけなかった人々の営みとして読むのが、たぶん正しい。

編集責任者Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.09.12
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