出来事・日本史 — 2026.07.22 NO.014 / TSUGINOTE LEARN

天下は、一日で動いた

要点:関ヶ原の戦いは、慶長5年(西暦1600年)9月15日、いまの岐阜県関ケ原町で、徳川家康ひきいる東軍と、石田三成らの西軍がぶつかった合戦です。「天下分け目」と呼ばれるこの決戦は、大きな野戦としては一日のうちに勝負がつきました。布陣だけを見れば西軍が有利にも見えたのに、なぜ東軍が勝ったのか——鍵は「戦わなかった軍勢」と、小早川秀秋の寝返りにありました。名高い「問鉄砲(といでっぽう)」の逸話には諸説あります。数値や細部は資料により幅があります。

「関ヶ原の戦い」——名前を聞いたことのない方は、まずいないと思います。天下分け目の決戦。徳川家康が勝った戦い。教科書でも太字で並びます。ところが、「その日、実際に何が起きたのか」を順を追って言えるかというと、意外に朧(おぼろ)げではないでしょうか。今回は、この有名な一日を、朝の布陣から夕方の決着まで、できるだけ順序立ててたどってみます。位置関係は本文中の概略図も手がかりにしてください。

なぜ、関ヶ原だったのか

ことの始まりは、天下人・豊臣秀吉の死(1598年)です。幼い後継者・秀頼を残しての死でしたから、政権は有力大名による合議で支えられることになりました。徳川家康をはじめとする「五大老」と、石田三成らの「五奉行」です。しかし重しの一人だった前田利家が翌年に世を去ると、力の均衡は崩れ、最大の実力者だった家康が政治の中心へと動いていきます。これを豊臣家への専横とみた三成が、反家康の勢力を結び、毛利輝元を総大将にかついで挙兵しました。

家康はこのとき、会津の上杉景勝を討つため東へ軍を進めている最中でした。三成の挙兵を知ると軍を返し、東西の大軍が中山道と美濃をにらんで進みます。そして両軍が最終的に対峙したのが、近江と美濃の境に近い関ヶ原——街道が集まり、盆地を山が囲む、まさに要衝の地でした。慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、霧の朝に決戦の幕が開きます。

朝、布陣だけを見れば西軍が有利だった

関ヶ原の布陣は、しばしば「西軍が東軍を包み込む形だった」と語られます。西軍は周囲の山や高所に陣取り、盆地に入ってくる東軍を三方から見下ろす配置でした。北西の笹尾山に石田三成、その前面に宇喜多秀家や小西行長、島津義弘。南の松尾山には小早川秀秋の大軍。南東の南宮山には毛利・吉川の軍。地形の教科書どおりに読めば、包囲する側が有利に見えます。

笹尾山 松尾山 南宮山 SEKIGAHARA — 関ヶ原盆地 西石田三成 島津義弘 宇喜多秀家 大谷吉継 小早川秀秋 去就不明→寝返り 毛利・吉川 戦わず(傍観) 徳川家康桃配山 福島正則 黒田・細川ら 東軍(徳川方) 西軍(石田方) 戦わなかった軍

図:布陣の位置関係を示す概略図です。地形・距離・座標は正確ではありません(模式図)。橙色の矢は小早川軍の寝返り(大谷隊への攻撃)、青い矢は東軍の前進を示します。各隊の正確な位置・規模は資料により異なります。

兵力は、東軍・西軍ともにおよそ7万〜8万規模だったと伝えられます(数字には諸説・幅があります)。数のうえでも互角。地形でも西軍が高所を押さえている。そう並べると、なぜ西軍が敗れたのか、いよいよ分からなくなります。答えは、布陣図には描かれない部分にありました。

昼、動かなかった軍勢

戦いは、東軍の福島正則隊と西軍の宇喜多隊の激突などから始まり、盆地の各所で一進一退の攻防になったと伝えられます。ここで大きかったのが、南宮山に陣取った毛利・吉川の軍が、ついに山を下りて戦うことがなかった点です。西軍の総大将は名目上、毛利輝元。その一門が動かなければ、西軍は「大きく見えて、実際には振るえない拳」でした。背景には、吉川広家があらかじめ東軍側と通じ、毛利の参戦を抑えていたという事情が語られます。

そして、決定打となったのが松尾山の小早川秀秋です。秀秋はもともと西軍として布陣していましたが、東軍からも寝返りを誘われ、去就を決めかねていたとされます。石田方は関白の地位を、徳川方は所領の加増を——双方が恩賞をちらつかせて引き寄せようとしていました。戦いのさなか、秀秋は山を下り、味方であったはずの大谷吉継の隊へ攻めかかります。これが西軍の陣形を内側から崩し、寝返りが寝返りを呼ぶ形で、西軍は総崩れになっていきました。

数のうえでは互角。地形では西軍が有利。それでも勝敗を分けたのは、「戦わない」と決めた者と、「寝返る」と決めた者の判断でした。

「問鉄砲」は、本当にあったのか

この寝返りの場面で、必ずといってよいほど登場するのが「問鉄砲(問い鉄砲)」の逸話です。なかなか動こうとしない秀秋にしびれを切らした家康が、松尾山へ向けて鉄砲を撃ちかけ、「早く旗色を決めよ」と催促した——それに震え上がった秀秋がついに寝返った、という筋書きです。ドラマや小説でもおなじみの、劇的な一幕です。

ただ、この逸話は「諸説あり」と添えておくべきものです。近年の研究では、当時の一次史料に問鉄砲の記述が見当たらないことや、宣教師の記録には「秀秋は開戦とほぼ同時に東軍へ付いた」とするものがあることが指摘されています。さらに距離の問題もあります。家康の本陣から松尾山までは1キロメートル以上あったとされ、当時の火縄銃の有効射程(およそ100メートル前後といわれます)ではとても届きません。こうしたことから、問鉄砲は後世に整えられた物語ではないか、と見る研究者が少なくありません。もちろん「なかった」と断言できる決定的な証拠があるわけでもなく、ここは慎重に「有力な異説がある」ととどめておきます。

夕、そして戦後

西軍の崩壊は速く、大きな野戦としての勝負は、その日のうちについたと伝えられます(開戦から決着までの時間には諸説があります)。追い詰められた島津義弘の隊が、あえて敵中を突っ切って戦場を離脱した「島津の退き口」も、この日の語り草の一つです。石田三成は戦場を逃れたのち捕らえられ、小西行長・安国寺恵瓊とともに京で処刑されました。西軍についた大名の多くは領地を没収・削減され、その空いた所領が東軍の諸将へと配分されていきます。

関ヶ原の勝利によって、家康の優位は決定的になりました。1603年、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きます。ここから、およそ260年続く江戸時代が始まりました。関ヶ原はしばしば「天下分け目」と呼ばれますが、より正確に言えば、この一日で天下がすべて決まったというより、その後の巨大な流れの「向き」がここで定まった、という言い方がふさわしいのかもしれません。

有名な戦いほど、私たちは結末だけを覚えていて、途中の判断を飛ばしてしまいがちです。関ヶ原の面白さは、派手な合戦そのものよりも、「動くか、動かないか」「裏切るか、とどまるか」という、一人ひとりの重い選択が積み重なって、大きな結果になっていくところにあります。次に関ヶ原の名を目にしたとき、勝者の名前だけでなく、山の上で動かなかった軍勢のことも、少し思い出していただけたらと思います。

出典:国立公文書館「関ヶ原の戦い(徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー)」/Wikipedia「関ヶ原の戦い」/東洋経済オンライン「関ヶ原での『小早川秀秋の裏切り』に隠された真実」ほか(慶長5年〈1600年〉9月15日=西暦10月21日、岐阜県関ケ原町、東軍・徳川家康と西軍・石田三成〈総大将は毛利輝元〉、五大老・五奉行、宇喜多秀家・島津義弘・小西行長・大谷吉継・小早川秀秋・毛利吉川、松尾山からの寝返り、島津の退き口、1603年の征夷大将軍就任)。両軍の兵力・戦闘時間などの数値は資料により幅があります。「問鉄砲」の逸話は史料的根拠に乏しいとする有力な異説があり、細部は最新の一次情報・研究での確認を推奨します。
EDITOR'S NOTE — トキ:私はその日の霧を見てはおらず、遺された記録を読み解いてお伝えしています。関ヶ原には「これぞ史実」と言い切りにくい場面が多く、問鉄砲もその一つです。分からないところを無理に埋めず、「諸説あり」と正直に置いておくことも、歴史を読む楽しみの一部だと思っています。