人物・日本史 — 2026.09.05 NO.078 / TSUGINOTE LEARN

5000円札になった女性は、
科学者になる話を、断ったことがある

洋装の女性教師が、机に並んだ押し花の標本を前に、着物姿の生徒たちへ身振りを交えて講義をしている教室のイラスト

要点:1889年に再渡米した津田梅子は、ブリンマー大学で生物学を専攻し、のちにノーベル賞を受けるトーマス・ハント・モーガンの指導のもとカエルの卵の発生を研究した。1894年に発表された共著論文は、日本人女性が外国の学術誌に発表した最初の自然科学論文とされる。モーガンは研究者としての残留を望んだが、津田は1900年に女子英学塾(現・津田塾大学)を創立し、教育の道を選んだ。肖像は2024年発行の新5000円札にも使われている。

財布から出した5000円札を、光にかざしたことがあるだろうか。透かしに浮かぶのは、若い女性の横顔である。その顔の主は津田梅子。2026年からさかのぼること2年、2024年7月に発行が始まった新紙幣に描かれた、教育者の名である。教科書には、女子教育の先駆者として一行で紹介されることが多い。だが肖像に選ばれた理由には、教科書の一行には収まらない話が眠っている。

五人のうち、最年少の一人

1871年12月23日、津田梅子は岩倉使節団と同じ蒸気船「アメリカ」号で横浜を出港した。満6歳、随行した日本初の女子留学生5人のうち、最年少だった。翌1872年1月15日、一行はサンフランシスコに入港している。父・津田仙が北海道開拓使の事業に関わったことがきっかけで、娘を留学生に送り出したと伝わる。同じ船には、山川捨松(のちの大山捨松)もいた。二人はこのとき知り合い、およそ30年後、女子英学塾の創立でふたたび肩を並べることになる。

ワシントンD.C.では、日本公使館の書記官チャールズ・ランマン夫妻に、実の娘のように預けられた。ジョージタウンの学校で英語を学び、続くアーチャー・インスティテュートでは語学・数学・理科・音楽を修めている。11年をアメリカで過ごし、1882年に帰国したときには、日本語をほとんど忘れていたという。

生物学者になる道が、いったん開いた

帰国後の津田は、伊藤博文(のちの初代内閣総理大臣)の子女の家庭教師を経て、1885年から華族女学校の教師になった。だが教育の対象が華族の子女に限られ、良妻賢母を育てることに主眼を置く校風には、満足していなかったと伝わる。1888年からはアメリカ時代の友人アリス・ベーコンの助けを得て、華族女学校から2年間の休職を得ると、全額給費でブリンマー大学(フィラデルフィア)へ留学する道を選んだ。

1889年、津田は生物学を専攻する学生としてブリンマー大学に入学した。指導教員は、発生学者で生物学科長のトーマス・ハント・モーガン。モーガンはのちにショウジョウバエを使った遺伝の研究で知られるようになり、1933年にノーベル生理学・医学賞を受けている。津田はモーガンのもとで、カエル(Rana temporaria)の卵の発生を調べる実験に取り組んだ。実験そのものは1891年から92年の冬に行われ、1892年のうちに論文としてまとめられている。共著論文「The Orientation of the Frog's Egg(カエルの卵の方向づけ)」は、1894年、英国の学術誌Quarterly Journal of Microscopical Science第35巻に掲載された。日本人女性が外国の学術誌に発表した最初の自然科学論文とされている。

研究者としての未来を惜しまれながら、津田が選んだのは、実験室ではなく教室だった。

選んだのは、そのあとの道だった

津田の力を惜しんだのは、モーガンも同じだったらしい。科学史家・古川安の著書を紹介した東京新聞デジタルの記事によれば、帰国した津田に宛てた1893年10月14日付の手紙で、モーガンは早期のアメリカ復帰を望む言葉を書き送っている。ブリンマー大学の学部長で、のちに学長となるM・キャリー・トマスも、津田の研究者としての将来性を評価していたと伝わる。ただし、この手紙の原文そのものに本紙は当たれておらず、内容は同記事が紹介する要旨にもとづく。

だが津田は、ブリンマー在学中にニューヨーク州のオスウィーゴー師範学校へ移り、半年ほど教育学を学んでいる。1892年に帰国したのちは華族女学校と東京女子師範学校で教え、女性の地位向上を訴える論文や講演を重ねた。研究者としての道を惜しむ声を受けながら、日本の女子教育に尽くす道を選んだ、と複数の伝記的資料は伝える。本人が理由を綴った一次資料に、今回は行き当たらなかった。

女子英学塾、資金難のなかの船出

1900年7月、津田梅子(35歳)は、大山捨松やアリス・ベーコンらの協力を得て、東京・麹町に女子英学塾を創立した。身分にかかわらず対等な高等教育の機会を女性に開くことを掲げた塾で、当初から慢性的な資金不足に悩まされ、津田自身が資金集めに奔走している。1902年、名前を梅子と改めた。1903年に専門学校としての認可を受け、1905年には日本におけるYWCAの初代会長にも就いた。1919年、脳卒中で倒れた津田は塾長を退き、鎌倉の別荘で療養に入る。1929年8月16日、64歳で没している。

できごと
1864江戸・牛込に生まれる(12月31日)
1871岩倉使節団と共に横浜を出港(満6歳)
188211年の留学を終えて帰国
1885華族女学校の教師になる
1889再渡米、ブリンマー大学で生物学を専攻
1894モーガンとの共著論文が発表される
1900女子英学塾を創立(35歳)
1929死去(64歳)
2024新5000円札の発行が始まる

論文と紙幣のあいだにある年月

津田が生物学の論文をまとめてから、女子英学塾を開くまで、8年しか離れていない。それでも選んだ道はそこで一つに定まり、以後の人生は教育に注がれた。2024年に発行された5000円札の肖像は、教育者としての津田を描いている。もし当時モーガンの誘いに応じていたら、という問いに答えは出せない。分かっているのは、財布の中の横顔が、一度は実験室で卵の発生を数えていた人物のものだということだけである。

出典:Wikipedia「Tsuda Umeko」Morgan, T. H.; Tsuda, Umé (1894)「The Orientation of the Frog's Egg」Quarterly Journal of Microscopical Science, 35巻東京新聞デジタル「生物学への未練断ち『津田梅子 科学への道、大学の夢』」政府広報オンライン「2024年7月3日、新しいお札が発行!」津田塾大学「津田塾の歴史」。モーガンの書簡の内容は東京新聞デジタルの記事が紹介する要旨によるもので、本紙は原文そのものには当たっていない。本紙が2026年9月5日に上記の各ページを直接確認した。関連:岩倉使節団
EDITOR'S NOTE — トキ:財布の中の肖像から、生物学の論文までたどりつく人は多くないだろう。津田が生物学を手放した理由については、本人の言葉で確認できる一次資料に今回は行き当たらなかった。義務感からだった、という説明は後年の伝記的資料による解釈であることを断っておく。

編集責任者Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.09.05
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