人物・世界史 — 2026.08.25 NO.072 / TSUGINOTE LEARN

マリ・キュリーが書いた紙は、
いまも鉛の箱に納められている

実験室で器具と書きかけのノートに向かう、二十世紀初めの女性科学者を描いたイラスト

要点:マリ・キュリーの実験ノートと草稿は、フランス国立図書館で鉛を内張りした箱に納められている。閲覧には免責の書面への署名と防護服が必要だと、複数の媒体が伝えてきた。紙が光っているのではない。付着しているラジウム226の半減期が1,601年あるためである。ただし「キュリーに触れたものはすべて危険」という理解は行きすぎる。パリのキュリー博物館は、館内の放射線量が館外の歩道より低いと自ら説明している。

パリのフランス国立図書館の収蔵庫に、鉛を内張りした箱が置かれている。中身は紙である。マリ・キュリーが実験の合間に書きつけた実験ノートと草稿だ。

図書館が特別な設備を用いるのは、たいてい資料を守るためである。手袋も、温度と湿度を保った書庫も、資料を人から守るために据えられている。ここでは向きが逆になっている。守られているのは読む側だ。箱を開けようとする者は免責の書面に署名し、防護服を身につける。米紙クリスチャン・サイエンス・モニターは2011年の記事でそう伝えており、その後も英語圏の媒体がくり返し取り上げてきた。

紙が光っているのではない

誤解されやすいところから片づけておきたい。紙そのものが変質して光を放っているのではない。付着しているのはラジウム226である。この核種の半減期は1,601年と報じられている。書かれてから百二十年余りが過ぎても、減った分はごくわずかにとどまる。

粉塵はどこから来たのか。マリとピエール・キュリーは1898年、閃ウラン鉱の研究からポロニウムとラジウムを見いだした。作業の場は換気のない仮小屋であり、砕いて煮て沈殿させる工程がそこで延々と繰り返された。舞い上がったものは机にも紙にも服にも降りる。手を洗っても、紙は洗えない。

マリ・キュリーは、抽出したものを上着のかくしに入れて持ち歩き、机の抽斗に納めていたとも伝わる。当時、放射線が人体に何をするかは分かっていなかった。

夜、瓶が光っていた

彼女自身の言葉が残っている。歴史家フィリップ・ブロムが著書に引いた自伝的覚書の一節である。

わたしたちの喜びの一つは、夜、作業室に入っていくことだった。四方に、わたしたちの生成物を収めた瓶や容器の、かすかに光る輪郭が見えた。それは本当に美しいながめで、何度見ても新しかった。光る管は、弱い妖精の灯のようだった。
(マリ・キュリーの自伝的覚書より。英訳から本紙が訳した)

この一節は、あとから読むと二通りに読める。発見の記録として読むこともできるし、被曝の記録として読むこともできる。書いた本人には、前者しか見えていなかった。

何トン煮たのかは、文献によって違う

ここで正直に書いておかねばならない。夫妻が処理した閃ウラン鉱の量については、参照した記事のあいだで数字が一致しない。七トンと書くものがあり、八トンと書くものがある。数年をかけて煮詰め、取り出せた塩化ラジウムは十分の一グラムであった、という点は各記事に共通する。

本紙は原典の秤量記録を確認していないので、量については幅のあるまま置く。確かなのは、それが台所仕事のような規模ではなかったということだ。

ラジウムは、三十年たたずに禁じられた

発見された物質は、危険物としてではなく新技術として世に出た。キュリー博物館の解説によれば、ラジウムは医療にとどまらず化粧品や時計の分野でも急速に用いられ、三十年たたないうちに、称えられた発明から禁じられた物質へ移った。

その三十年に何が売られていたかも記録が残っている。歯磨きから下剤まで、放射性のトリウムを混ぜた商品が並び、ラジウム入りの入浴剤が不眠に効くと謳われた。ラドンとウランで内張りした陶器の水差しは、腹の不調に処方された。アメリカでは1938年の食品医薬品化粧品法で、ようやくこの種の消費財が禁じられる。それは、ラジウム入りの水を大量に飲んだ実業家イーベン・バイヤーズが死んだあとであった。彼は鉛で内張りした棺に納められたと伝わる。

鉛の箱の話は、この一連の出来事の末尾に置かれている。当時の誰も悪意で紙を汚したのではない。分からないまま作業を続けた結果が、そのまま物として残った。

博物館の床は、歩道より線量が低い

ところが、この話には対になる事実がある。

パリのキュリー博物館は、旧ラジウム研究所の建物にある。同館の公開している解説によれば、マリ・キュリーの旧研究室は1981年に除染して復元され、1990年代にも数回の浄化作業が行われた。放射能の痕跡は段階的に取り除かれ、現在は所管当局の管理下にあるという。

そのうえで同館は、こう書いている。館内で測られる放射線量は館外で測られるものより低い。パリの歩道の縁石は花崗岩でできているので、博物館の床板の二倍から三倍にあたる、と。

つまり「キュリーが触れたものはすべて危険だ」という言い方は、事実の半分だけを取っている。線量の高い調度は処分されて置き換えられ、写真資料をもとに部屋が組み直された。残されたものは測られ、管理されている。鉛の箱に入っている紙は、その選別を通ったうえで、なお箱を必要としたものである。

できごと
186711月7日、ワルシャワにマリア・サロメア・スクウォドフスカとして生まれる
1898マリとピエールが閃ウラン鉱からポロニウムとラジウムを見いだす
1903ノーベル物理学賞。アンリ・ベクレル、ピエール・キュリーとの共同受賞
1911ノーベル化学賞。二つのノーベル賞を受けた最初の人となる
19347月4日、フランスのサランシュ近郊で没する。六十六歳
1938アメリカで食品医薬品化粧品法が成立し、放射性の消費財が禁じられる
1981旧研究室が除染・復元される。1990年代にも浄化作業
19954月20日、遺骸がソーからパンテオンへ移される

パンテオンへの移送について、一点添えておく。彼女は、みずからの功績によってここに祀られた最初の女性とされる。先に眠っていたソフィー・ベルテロは化学者マルスラン・ベルテロの妻としての資格であった。式でミッテラン大統領は、われらの歴史においてみずからの功績で顕彰される最初の女性であると述べたと報じられている。


なぜ、いま鉛の箱を見るのか

キュリー博物館は2023年、「当館は放射性か」という問いを自分で立て、答えをウェブサイトに掲げた。問われ続けているということである。発見から百二十年以上たっても、人はまず「危ないのか」を知りたがる。

発見の記録は、ふつう文字として残る。論文が残り、書簡が残り、日付が残る。ここでは物として残った。何を測り、何を書き落としたかという情報のほかに、その日その机に何が降っていたかまでが、紙に載って現在まで来ている。1,601年という数字は、たいていの図書館の寿命より長い。

キュリー博物館は無料で公開されている。旧研究室に入るのに防護服は要らない。館の床板より線量が高いのは、外に敷かれた花崗岩の縁石である。

出典:Musée Curie「Le Musée Curie est-il radioactif ?」(2023年4月25日公開・同年9月15日更新、執筆 Renaud Huynh)The Christian Science Monitor「Marie Curie: Why her papers are still radioactive」(2011年11月7日、Eoin O'Carroll)Encyclopædia Britannica「Marie Curie」The Nobel Prize「Marie Curie – Biographical」。自伝的覚書の引用はクリスチャン・サイエンス・モニターがフィリップ・ブロム『The Vertigo Years: Europe, 1900-1914』(2008年)から引いた英訳にもとづき、日本語は本紙が訳した。パンテオン移送の日付と大統領発言は、ノーベル財団の解説および1995年の通信社報道による。閃ウラン鉱の処理量は参照記事のあいだで七トンと八トンの記載が分かれており、本紙は原典の記録を確認していない。ラジウム226の半減期1,601年はクリスチャン・サイエンス・モニターの記載による。本紙が2026年8月25日に本文を直接確認したのは、キュリー博物館のFAQ、クリスチャン・サイエンス・モニターの記事、ブリタニカの略歴の3件である。関連:半減期
EDITOR'S NOTE — トキ:この題材は、話を派手にする材料がいくらでもある。光る瓶、鉛の棺、防護服。だから逆の事実まで並べておきたかった。歩道の縁石のほうが線量が高いという一行は、博物館が自分で書いている。危ないものを危ないと言うのと、危ないと言い続けるのとは、別のことである。

編集責任者Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.08.25
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