「万能の天才」の絵は、いま何点あるのか。
要点:レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519年)は、たいてい「万能の天才」として紹介されます。ところが絵画のほうを数えると、確実に本人の作とされる現存作は17点ほどで、しかもそのうち何点かは描きかけのままです。1900年ごろには100点近くが彼の作とされていたといいますから、数は増えるどころか、この百年で減ってきました。減らした側の事情と、そもそも仕上がらなかった仕事の記録を、順に見ていきます。
肩書きの並びは、たしかに壮観です。画家、素描家、彫刻家、建築家、技術者、解剖学者、そして手稿の書き手。ブリタニカ百科事典の記述も、彼を盛期ルネサンスの万能人として紹介しています。1452年4月15日、フィレンツェ共和国のヴィンチ近郊アンキアーノに生まれ、1519年5月2日、フランスのクルー(現在のクロ・リュセ)で亡くなりました。
けれども、この人の生涯をたどるうえでいちばん手がかりになるのは、完成した作品の一覧ではありません。仕上がらなかった仕事の記録のほうです。
まず、数の話から
ブリタニカの解説によれば、確実にレオナルドの作とみなせる現存絵画は20点に届かず、より具体的には17点とされます。そして、そのうちの数点は未完成です。さらに厳しく数える立場もあり、「完成した絵」としてほぼ確実に本人の作といえるのは5点から7点にとどまる、という説明も同じ解説のなかに出てきます。そこで名前が挙がるのは『岩窟の聖母』『最後の晩餐』『聖アンナと聖母子』『モナ・リザ』『洗礼者ヨハネ』です。
興味深いのは、この数が時代とともに減ってきたことです。作品目録をまとめたある解説は、1900年ごろにはおよそ100点がレオナルドに帰属されていたのに対し、今日ではおよそ20点だと記しています。増えたのは絵ではなく、疑いのほうでした。
減った理由は二つに整理できます。一つは、彼が大きな工房を構え、多くの弟子や協力者と仕事をしていたこと。師と弟子の筆を切り分ける作業は、いまも決着していません。もう一つは、同時代の記録がそもそも少なく、あいまいなことです。手がかりが薄いところでは、帰属は研究の進み方しだいで動きます。
青銅は、大砲になった
仕上がらなかった仕事の代表は、絵ではなく彫刻です。ミラノ公国のためにレオナルドが引き受けた巨大な騎馬像、いわゆるスフォルツァ騎馬像です。ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)が父フランチェスコを記念して発注したもので、当時の世界で最大の騎馬像になるはずでした。
準備は進みました。1491年5月までに実物大の粘土原型が完成し、1493年11月、婚礼の式典に合わせてミラノ公の旧邸の中庭で公開されたと伝わります。ところが青銅は届きませんでした。1494年、鋳造用に確保されていた青銅は、ミラノ公の姻戚のもとへ送られ、大砲に作り替えられます。戦乱のなかで鋳型も失われ、残された粘土原型はフランス軍の射手に的として使われ、土の山に戻ったと伝えられています。
設計図と原型はあった。足りなかったのは、青銅そのものだった。
約五百年後、残された設計に基づいて別の作者が像を実現させる試みが行われましたが、それはもうレオナルドの手ではありません。
壁から、流れ落ちた
絵の側にも、同じ種類の記録があります。1505年、フィレンツェのヴェッキオ宮殿・五百人広間に描かれるはずだったアンギアーリの戦いです。1440年の同名の戦いを主題に、旗をめぐって激しく争う四人の騎手を中心に据える構想だったとされます。
これは未完のまま放棄されました。原因は技法の実験にあったと伝えられます。初期の伝記作者は、レオナルドが胡桃油を用いる通常とは異なる技法を試したものの色が安定しなかった、と記しています。別の説明では、蝋を混ぜた絵具を使い、描き終えた部分を早く乾かすために火鉢を吊り上げたところ、蝋が溶けて絵の多くが壁を流れ落ち、床にたまったとされます。どちらの伝えを採るにしても、失敗の中心にあったのは新しい方法への好奇心でした。
未完の壁画はしばらくその場に残り、訪れた画家たちに讃えられたといいます。最終的には失われ、いまその場所には1563年から65年にかけてジョルジョ・ヴァザーリが描いたフレスコが掛かっています。
描きかけのまま、残った二点
すべてが消えたわけではありません。仕上がらないまま現存している絵が、少なくとも二点あります。
| 作品 | 時期 | いまどこに |
|---|---|---|
| 東方三博士の礼拝 | 1481年3月に発注、1481〜82年ごろ | フィレンツェ・ウフィツィ美術館 |
| 荒野の聖ヒエロニムス | 1480〜90年ごろ | ローマ・ヴァチカン美術館 |
『東方三博士の礼拝』は、サン・ドナート・ア・スコペートの修道会が1481年3月に注文した板絵でした。レオナルドがフィレンツェを離れてミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァのもとへ向かったため、そのまま放置されます。皮肉なのは、色が乗らなかったおかげで下絵の構成が透けて見え、彼が画面をどう組み立てたのかが読み取れる状態で残ったことです。仕上がっていたら分からなかったことが、仕上がらなかったために見えています。
4億5,030万ドルの、定まらない一点
数がいまも動いている、というのはたとえ話ではありません。2017年11月15日、ニューヨークのクリスティーズで一枚の板絵が4億5,030万ドルで落札されました。オークションで2億ドルを超えた最初の美術品です。このサルバトール・ムンディが、レオナルド作かどうかについては、いまも合意がありません。
争点は二つです。修復の手が広く入っていること。そして、彼の生前の記録に「救世主」を描いたという言及が一つも見つかっていないことです。専門家のなかには、本人ではなく工房の作とみる立場もあります。落札後、この絵は美術館での公開が予定されながら延期され、その後は公の場に出ていません。
残ったのは、書き置きだった
絵が減っていく一方で、そこそこ厚く残ったものがあります。手稿です。20冊ほどのノートが現存し、いまはフィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、マドリード、パリ、ロンドン、ウィンザー城などに散っています。枚数の見積もりには幅があり、4,000枚あまりとするものから7,200枚を超えるとするものまで、数え方によってかなり違います。
これは注文された仕事ではありませんでした。誰にも納品せず、誰の期限にも縛られず、鏡文字で書き続けた覚え書きです。締切のあった仕事のほうが失われ、締切のなかった書き置きのほうが残った、という順序になっています。
そして、彼に与えられた点数はいまも確定していません。工房の筆と本人の筆を分ける研究は続いており、一枚が加われば数は増え、疑いが立てば減ります。「万能の天才」という肩書きの持ち主が、現存作の点数すら定まらないままである、というのがこの人物の現在の状態です。数え直しは、まだ終わっていません。
編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.08.04
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