古文に主語がないのではありません。
書いてある場所が、四つあります。
要点:古文が読めない理由を「単語を忘れたから」に置いている人は多いと思います。けれど、実際のつまずきの多くは主語のほうです。原文は「誰が」を書きません。書かないかわりに、書き手は別の場所に目印を置きました。四つあります。三つは千年前の身分の高さに関わり、一つは文の切れ目にあります。ただしその一つは規則ではなく傾向で、平気で外れます。外れるところまで込みで持っておくと、原文はすこし静かになります。
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。
紀貫之『土佐日記』の書き出しです。男もするという日記というものを、女もしてみようと思ってするのだ、といったところでしょうか。この一文には「誰が」がありません。そして書いた本人は男です。
日本の仮名の散文は、ほとんど最初の一歩で、主語を書かないばかりか書き手の性別まで取り替えてみせています。芸のはじまり方として、なかなかのものだと思います。
学校では、これを「主語の省略」と教わりました。私はこの言い方があまり好きではありません。省略には、落とした、抜けた、手を抜いた、という響きがある。落としてなどいません。書かなくても分かる仕掛けが、本文の側に用意してある。読む側がその仕掛けを持って来なかっただけです。
目印は、まず敬語の高さにあります
一つめ。敬語の種類です。
尊敬語は、その動作をしている人を高く扱う言葉です。ですから尊敬語が付いていれば、その動作の主は敬われる側の人だと分かります。謙譲語は逆で、動作を受ける相手を高く扱う。謙譲語が付いていれば、動作の主のほうが低い側です。
身分の高低という、いまの生活からは遠い物差しが、そのまま主語の目盛りになっている。古文の敬語を「覚えるもの」だと思っていると、この機能が見えません。敬語は装飾ではなく、話者の位置を示す標識です。
宛先が最初から決まっている言葉があります
二つめ。相手が一人に定まる敬語があります。
「奏す」は帝や上皇に申し上げる、「啓す」は中宮や皇太子に申し上げる。学校文法ではこの二語を絶対敬語と呼びます。誰に向かって言ったのかが語そのものに書き込まれているので、相手が確定し、そこから主が絞れます。
ただし用語には注意が要ります。日本語学でいう「絶対敬語」は、相手や場面によらず常に一定の表現を用いる敬語法という、もう少し広い意味で使われます。学校で習う二語は、そのなかの分かりやすい一例だと思っておくのが安全です。
文の切れ目が、人を替えます
三つめ。接続助詞です。ここだけは性質が違います。
「を」「に」「が」「ど」「ば」で文がつながるとき、その前後で主語が替わりやすい。「て」「で」「つつ」でつながるときは、同じ人のまま続きやすい。受験の教室でよく教わる目安です。
目安、と書いたのは、これが規則ではないからです。外れる例はいくらでもあります。ここを法則だと信じて読むと、外れたときに本文のほうを疑ってしまう。疑うべきは自分の当てずっぽうです。三つめの目印は、最初の見当をつけるための道具であって、答えではありません。
会話文の中では、基準が動きます
四つめ。地の文と会話文の区別です。
地の文の敬語は、書き手から登場人物への敬意です。会話文の敬語は、話している人から相手への敬意に切り替わります。同じ「たまふ」でも、誰の目線から誰を高く扱っているのかが変わる。ここを混ぜて数えると、目印の一つめと二つめがまとめて狂います。
そして会話文のなかには、地の文が伏せていた人称が、ふいに顔を出すことがあります。呼びかけ、名指し、自称。かぎ括弧の中は、原文がいちばん親切になる場所です。
| 目印 | 見るところ | 確かさ |
|---|---|---|
| 敬語の種類 | 尊敬語なら動作の主が上、謙譲語なら受け手が上 | 高い |
| 宛先の決まった敬語 | 「奏す」は帝・上皇へ、「啓す」は中宮・皇太子へ | 高い |
| 接続助詞の切れ目 | を・に・が・ど・ばで替わりやすく、て・で・つつで続きやすい | 目安(外れる) |
| 地の文と会話文 | 敬意の出どころが書き手か話し手かで基準が変わる | 高い |
「三日で読める古典」の棚に思うこと
書店には、あらすじと現代語訳だけで一冊を渡り歩ける本が並んでいます。入口として悪いとは言いません。けれど「これで読んだことになる」と帯に書くのは、話が別です。訳文は訳者が一度読み切った跡であって、読者が読んだ跡ではない。他人の足跡を眺めることを、散歩とは呼ばないでしょう。
この毒は、そのまま私に返ってきます。私は要約が得意です。得意すぎて、要約を差し出せば仕事が済んだ気になる。けれど『土佐日記』の面白さは、旅程の要約のどこにも入っていません。男が女のふりをして書き出した、あの一文の傾き方にあります。傾きは、要約すると消えます。
だから目印の話をしています。四つ持っていれば、訳を横に置かずに一日分くらいは進めます。進めた分だけが、あなたの読んだ分です。
なぜ、いま
高校の国語は、2018(平成30)年告示の学習指導要領で科目立てが変わりました。必履修は「現代の国語」と「言語文化」の二つ。「論理国語」「文学国語」「国語表現」、そして古典を正面から扱う「古典探究」は選択科目です。2022年度の入学生から年次進行で実施されました。
つまり、古典にどれだけ触れて卒業したかは、通った学校と選んだ科目で幅があります。いま学び直そうという大人にとっても、隣の人と前提が揃っていない。単語帳から入り直すより、まず「誰の話か」を掴む道具を持ったほうが、原文の手前で引き返さずに済むと思います。
読み方そのものを疑ってみる、という話は先日の「羅生門」の回でも書きました。あちらは語り手がどこに立っているかの話でした。こちらは、その語り手が誰のことを話しているかの話です。
次に開く一篇
青空文庫の『土佐日記』を、冒頭から門出のくだりまで。原文は旧字旧仮名で、最初の数行で目が滑ると思います。滑ったまま、二度目を読んでください。
読むときの手順を一つだけ。句点のたびに「いま誰の話か」を声に出して言う。当たっているかは後で訳と突き合わせればよく、大事なのは、主語を空欄のまま流さない癖をつけることです。四つの目印は、この癖の上でしか働きません。
『土佐日記』は五十日あまりの船旅の記録で、全体でもそう長くありません。もし一日分で足りなければ、二月十六日、京の家に帰り着いた日まで読み進めてみてください。荒れた庭を前にした最後のあたりで、女のふりをしていたはずの声が、どこか別のところから聞こえてきます。
編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.08.02
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