人物・世界史 — 2026.07.24 NO.019 / TSUGINOTE LEARN

19歳で処刑され、25年後に無罪になった

甲冑をまとうジャンヌ・ダルク

要点:1412年ごろに生まれたジャンヌ・ダルクは、17歳で王太子シャルルに謁見し、オルレアンの包囲を解いてランスでの戴冠を実現しました。しかし1430年に捕らえられ、1431年、数えで19歳のとき異端としてルーアンで火刑に処されます。ところがその25年後の1456年、まったく別の裁判が「1431年の裁判は不正な手続きだった」と断じ、彼女を正式に無罪としました。有罪と無罪、正反対の二つの判決を分けたものは何だったのかを、確かなことと諸説を分けて振り返ります。

「ジャンヌ・ダルクは異端として処刑された」。これは事実です。ところが「ジャンヌ・ダルクは無罪だと正式に宣告された」。これもまた事実です。一見矛盾するようですが、両方とも本当のことで、その間には25年という歳月と、性格の異なる二つの裁判があります。今回は、フランスを救ったとされる少女の生涯を、この二つの裁判を軸にたどります。

声を聞いた少女

ジャンヌは1412年ごろ、フランス北東部の小さな村ドンレミーに生まれたと伝わります。ロレーヌ地方と境を接するこの村は、当時、フランスとイングランドが百年にわたって争っていた「百年戦争」の渦中にありました。13歳ごろから、大天使ミカエルや聖カタリナ、聖マルグリットの声が聞こえるようになったとされ、その声は「王太子シャルルを助け、イングランド軍をフランスから追い払え」と告げたと伝わります。1429年、地元の守備隊長を説き伏せた彼女は、王太子のいる南部の町シノンへと送り出されました。男装して、数百キロにおよぶ道のりを進んだとされます。

オルレアンを解き、ランスで王を戴冠させる

シノンで王太子シャルルに謁見したジャンヌは、当時イングランド軍に包囲されていた要衝オルレアンへの援軍に加わります。1428年10月から続いていたこの包囲戦は、彼女の到着からおよそ1週間あまりで形勢が変わり、1429年5月8日、イングランド軍は撤退しました。この勝利をきっかけに、ジャンヌは各地の戦いでフランス軍を率いる存在になっていきます。そして同年7月17日、ランス大聖堂でシャルルは正式にフランス王シャルル7世として戴冠しました。ジャンヌが掲げていた「王太子を戴冠させる」という目標は、ここで一つ達成されたことになります。

FRANCE 1429-1431 — ジャンヌの足どり(模式図) R ルーアン 1431 裁判・処刑 コンピエーニュ 1430.5 捕縛 ランス 1429.7 戴冠 オルレアン 1429.5 包囲を解く シノン 1429.2 王太子に謁見 ドンレミー START / 1412生誕

図:ジャンヌの足どりを示す概略図です。国境・位置関係・縮尺は正確ではありません(模式図)。オレンジの点は、裁判と処刑が行われたルーアンを示します。

捕らわれた19歳、ルーアンの法廷

勢いは長く続きませんでした。1430年5月23日、ジャンヌはパリ北方の町コンピエーニュでの戦闘中、ブルゴーニュ派の軍に捕らえられます。ブルゴーニュ派は当時フランス王家と敵対し、イングランドと結んでいた勢力です。ジャンヌは身代金と引き換えにイングランド側へ引き渡され、ノルマンディーの町ルーアンで裁判にかけられることになりました。裁判を主導したのは、イングランド寄りの立場をとっていた司教ピエール・コーションです。1431年1月9日から始まった審理は異端の疑いを軸に進められ、同年5月30日、ジャンヌは異端として有罪を宣告され、ルーアンの市場広場で火刑に処されました。数えで19歳だったとされます。

25年後、判決は覆った

話はここで終わりません。1450年代に入り、ジャンヌの母イザベル・ロメと兄弟たちが、教皇カリストゥス3世に判決の見直しを願い出ます。異端審問総監ジャン・ブレアルが調査を担い、1455年11月7日、パリのノートルダム大聖堂で正式に審理が始まりました。この「復権裁判」と呼ばれる再審は、新たな証拠を探すというより、1431年の裁判記録そのものを検証する作業でした。

判事たちは、1431年の裁判記録を「欺瞞・悪意・矛盾、そして事実と法における明白な誤りにまみれていた」と断じました。同じ記録に対して下された、正反対の結論です。

そして1456年7月7日、判事たちはジャンヌにかけられた罪状を無効と宣言し、彼女を「不当な偏見の犠牲者」としました。有罪から25年後のことです。さらに時代が下って1920年5月16日、教皇ベネディクトゥス15世によってジャンヌは列聖され、カトリック教会の聖人に加えられています。

考察 — 二つの裁判は、同じ記録の上に立っている

ここで興味深いのは、有罪と無罪という正反対の結論が、まったく別の証拠から出たわけではないという点です。復権裁判が検証したのは、1431年の裁判そのものの手続きでした。実は1431年の裁判記録は、公証人ギヨーム・マンションらの手で審理でのジャンヌ自身の受け答えまで書き残されており、中世の人物としては異例なほど、本人の言葉に近い記録が伝わっています。この記録はのちにラテン語にも訳され、現在もフランス国立公文書館に保管されているとされます。もっとも、その受け答えが本当に一言一句正確なのか、記録者や後の写本づくりの過程で言葉が整えられていないかについては、歴史研究のうえで慎重な検討が続いており、「一次資料だから、そのまま確実」と単純には言い切れません。

同じ記録が、一度は人を罰する材料として読まれ、25年後には人を救う証拠として読み直されました。記録それ自体は、有罪も無罪も語りません。それを読む側の立場と、手続きの正しさが、正反対の判決を分けたのです。

出典:Wikipedia「Joan of Arc」「Trial of Joan of Arc」「Rehabilitation trial of Joan of Arc」(英語版)/Britannica「Joan of Arc」「Siege of Orléans」/History.com「Why Joan of Arc Was Acquitted, 25 Years After Her Execution」/jeanne-darc.info「Trial of Nullification」「Overview」/日本語版Wikipedia「ジャンヌ・ダルク」「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」「ジャンヌ・ダルク復権裁判」「ジャンヌ・ダルク列聖」。生年(1412年ごろ)や道中の詳細、声の内容には史料上諸説があり、中世の記録に基づく伝承を含みます。年月日・数値は複数の百科・記事を突き合わせて記載していますが、細部は最新の一次情報・研究での確認を推奨します。
EDITOR'S NOTE — トキ:私はその法廷に居合わせたわけではなく、残された裁判記録を読み解いてお伝えしています。同じ記録が、一度は人を罰し、二十五年後には人を救う証拠になった。その事実には、記録そのものの正しさと、それを読む側の手続きの誠実さが別問題であることを、あらためて考えさせられます。