坂本龍馬のいろは丸事件、賠償金の換算額に20倍の開き。
要点:1867年、坂本龍馬率いる海援隊の蒸気船「いろは丸」は紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突し沈没した。龍馬は国際法「万国公法」を盾に交渉したと伝わるが、当時の航法の慣習に照らすといろは丸側にも操船の非があったとされる。紀州藩が支払った賠償金は8万3,526両198文、あるいは7万両に減額されたと伝わるが、これを現在の価値に換算すると、基準次第でおよそ7億円にも164億円にもなり、その開きは20倍近い。支払われた金の行方を示す記録も残っていない。
瀬戸内海、備中国笠岡諸島の沖を、一隻の蒸気船が夜通し進んでいた。慶応3年4月23日の深夜、長崎を出たばかりのその船は、同じ海域を行く紀州藩の軍艦と行き合うことになる。のちに「いろは丸事件」と呼ばれるこの衝突で沈んだ船を率いていたのが、坂本龍馬である。
英国生まれの船を借りて、初めての航海へ
坂本龍馬が率いた海援隊の「いろは丸」は、英国で建造された160トン、全長54mの蒸気船であった。伊予国大洲藩が、龍馬と薩摩藩士・五代友厚の仲介で、長崎に駐留していたポルトガル領事からこの船を購入し、海援隊の海運業務のために貸し出していたと伝わる。借り賃は一航海につき500両だったという。慶応3年4月19日、いろは丸は海援隊にとって初めての航海として長崎を出港し、大坂を目指した。
六島沖の衝突、鞆の浦での沈没
出港から4日後の4月23日深夜、いろは丸は備中国笠岡諸島(現在の岡山県笠岡市)の六島沖で、長崎へ向かう紀州藩船「明光丸」と衝突した。龍馬ら乗組員は明光丸に移って無事だったが、いろは丸は大破した。明光丸がこれを鞆の浦(現在の広島県福山市)へ曳航する途中、宇治島沖で、いろは丸は沈んでいった。
「万国公法」の名場面、ただし法的に分が悪かったのは龍馬側
龍馬は紀州藩が用意した廻船問屋「桝屋」の桝屋清右衛門宅や、見晴らしのよい対潮楼に4日間滞在し、賠償交渉にあたった。よく語られるのは、龍馬が当時の日本でまだ知る人の少なかった国際法「万国公法」を持ち出し、紀州藩を驚かせて交渉を有利に進めたという筋書きである。だが記録をたどると、法的には龍馬側が不利だった可能性が高い。当時の航法の慣習では、衝突の危険が生じた場合に互いが右へ舵を切るのが原則とされていたが、いろは丸は左に舵を切っていたと伝わる。灯火を点けていなかったとする指摘もある。
法的に分が悪くとも、政治力で押し切る。龍馬が紀州藩から引き出したのは、法の勝利というより、交渉の勝利だった。
世論を味方につけ、積荷の申告も後から変えた
それでも交渉が龍馬側に傾いたのは、法理論よりも政治的な駆け引きによるところが大きかったとされる。交渉の舞台となった長崎では、「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」という歌がはやらされ、非は紀州藩にあるという空気が作られたと伝わる。さらに、衝突直後に海援隊士は積荷を「米と砂糖で、たいした量ではない」と証言していたが、交渉が進むうちに龍馬は、小銃など武器(3万9千両相当)も積んでいたと主張を変えたという。紀州藩は徳川御三家という立場でありながら早期の決着を望み、一戦も辞さないという龍馬側の姿勢に押される形で、賠償金の支払いに応じたと伝わる。
賠償金はいくらだったのか
支払われた金額も、資料によって書きぶりが異なる。鞆の浦の観光案内は、紀州藩が支払った賠償金を8万3,526両198文としている。別の資料は、当初の請求額を8万3千両余としたうえで、最終的に7万両へ減額されたと伝える。本紙はどちらが最終的な決着額にあたるのかを一次資料で確定できなかったが、いずれにしても数万両規模の支払いがあったという点は共通している。
今の価値に換算すると、20倍近い開きが出る
この金額を今の価値に置き換えようとすると、何を基準にするかで答えが大きく変わる。
| 換算の基準 | 1両の目安 | 7万両なら | 8万3,526両198文なら |
|---|---|---|---|
| 当時の金相場をもとにした推計(日銀高知支店調べ) | 約18万〜22万円 | 約126億〜154億円 | 約150億〜184億円 |
| 貨幣博物館の目安(金1両=銀60匁)と慶応2年秋の米価(米1石=銀585匁)から算出 | 約1万円 | 約7億円 | 約8億4,000万円 |
鞆の浦の観光案内は、8万3,526両198文という賠償金を「現在の164億円」と紹介している。これは1両あたりおよそ19万6千円で換算した計算にあたり、金相場をもとにした推計の幅にちょうど収まる。一方、貨幣博物館の目安をもとに、慶応2年(1866)秋の米1石=銀585匁という史料から1両の値打ちを割り出すと、答えはおよそ1万円まで下がる。両方とも「両」という同じ単位を使いながら、金の相場を基準に置くか、米の値段を基準に置くかで、歴史上のお金はまったく違う姿を見せる。
払われた金の行方は、記録に残っていない
紀州藩からの賠償金は、慶応3年11月、長崎の土佐商会に支払われたと伝わる。だが龍馬は同じ月の15日、京都・近江屋で暗殺され、この金を自ら手にすることはなかった。本来であれば、いろは丸の持ち主である大洲藩に、船の代金に相当する額(およそ4万2千両)が支払われるはずだったが、それが渡った形跡は確認されていない。海援隊の経理を担っていた岩崎弥太郎は、のちに土佐藩の事業を引き継ぎ、三菱商会を興す。行方の分からないいろは丸の賠償金が、その元手の一部になったのではないかという見方を示す論者もいる(本紙はこの見方がどの程度支持されているかを独自には確認できていない)。
いろは丸の船体は、のちの海底調査によって位置が特定され、引き揚げられた遺品はいろは丸展示館で見ることができる。一方、龍馬が主張した小銃などの武器については、調査でその本体も部品も見つかっていないと紹介する記事もある(本紙はこの点を一次の調査報告書では確認できていない)。
坂本龍馬やいろは丸事件を扱う文章では、「賠償金は今の金額でおよそ◯億円」という数字が、単一の答えであるかのように紹介されることが少なくない。だが今回たどったように、基準の置き方次第で、答えは20倍近く変わりうる。鞆の浦に立つ展示館には、沈んだ船の遺品が残っている。流れた賠償金の行方を示す記録は、そこにはない。
編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.10.10
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