楽器を触る前に、なぜ「動く」練習を挟むのでしょうか。
要点:音楽教育「リトミック」を考案したのは、スイスの音楽家エミール・ジャック=ダルクローズ(1865〜1950年)です。1892年からジュネーヴ音楽院で和声を教える中で当時の音楽家養成のあり方に見直しの余地があると考え、体の動きでリズムを表す教育法を生み出しました。1905年ごろから学校教育にも応用され、1910年にドイツ・ヘラウ、1914年にジュネーヴへ専門の学校が開かれています。日本へは大正時代に小林宗作・天野蝶らが伝え、以来ながく乳幼児教育のイメージが強い分野でした。ところが2022年、学術誌『Scientific Reports』に、65歳以上の女性59人を対象にした無作為化比較試験で、12週間・週2回のリトミック運動が姿勢を安定させる動きの速さと正確さを有意に改善させたとする研究が発表され、2024年にも転倒リスクの高い高齢者142人を1年間追った比較試験が報告されました。子ども向けと思われがちなこの学び方を、大人の学び直しの視点からほどきます。
「リトミック」と聞いて多くの方が思い浮かべるのは、幼稚園や乳幼児向けの教室で、タンバリンや音楽に合わせて子どもたちが跳びはねている光景ではないでしょうか。私も最初はそのイメージしか持っていませんでした。けれど調べてみると、この教育法はもともと、プロの音楽家を育てる音楽院の教室から生まれたものです。しかも近年は、大人、それも高齢の方を対象にした比較試験まで行われています。今日は、子どものものと思われがちなこの学び方を、大人の学び直しという角度から一度ほどいてみます。
なぜ「動き」から始める教え方が生まれたのか
リトミックを考案したのは、スイスの音楽家エミール・ジャック=ダルクローズです。1892年からジュネーヴ音楽院で和声を教えていた彼は、当時の音楽家養成の方法に見直しの余地があると考えました。そこで作り出したのが、体の動きで音楽のリズムを表す教育法です。楽譜の上の記号としてリズムを覚えるのではなく、まず自分の体で拍やリズムを感じ取ってから、理論や演奏へ戻っていく——この順番を大切にしました。方法は1905年ごろから小学校の子どもたちにも応用されるようになり、1910年にはドイツのヘラウに専門の学校が、1914年にはジュネーヴに中心となる学校が設立されています。ダルクローズは、この学校を1950年に亡くなるまで率い続けました。
「からだ」で学ぶ、3つの柱
リトミックの中身は、大きく3つの要素で説明されることが多いです。音を聴き、声や体の動きで音の高さやリズムを感じ取るソルフェージュ。歩く・跳ぶ・止まるといった全身の動きで拍子やリズムそのものを表すリズミックムーブメント。そして、決まった正解を求めず、その場でリズムや動きを自由に組み立てるインプロヴィゼイション(即興)です。この3つが組み合わさることで、耳と体と即興の力が、ばらばらにではなく一つながりに育っていく、という考え方です。
ダルクローズが目指したのは、記号として覚えるリズムではなく、体にしみ込んだリズムでした。
「子ども向け」だけではないと示し始めたデータ
長らく乳幼児教育のイメージが強かったリトミックですが、大人への効果を確かめる研究も、少しずつ発表されるようになっています。2022年に学術誌『Scientific Reports』に掲載された研究では、65歳以上の女性59人を、リトミック運動に取り組むグループ(26人)と取り組まないグループ(33人)に分けて比較しました。取り組んだグループは12週間、週2回・45分のプログラムに参加し、前後で姿勢を安定させる能力——体の重心をコントロールする動きの速さと正確さ——を機器で測定したところ、取り組んだグループのほうが有意に改善していたと報告されています。また2024年に発表された、転倒リスクの高い65歳以上の高齢者142人を対象にした1年間の比較試験でも、リトミックを取り入れたグループは、通常の複合的な運動プログラムのグループと比べて、歩き方の面で良い結果が示されたとされています。
ただし、これらはいずれも高齢の女性や高齢者一般を対象にした、特定の人数・期間での結果です。「大人なら誰でも同じ効果が出る」と言い切れるものではありません。体を使う運動という性質上、持病のある方や体力に不安のある方は、始める前に医師や専門家に相談することをおすすめします。
| 柱 | 何を鍛えるか | 家でも試せる例 |
|---|---|---|
| ソルフェージュ | 音の高さ・リズムを聴き取る耳 | 好きな曲のメロディーを鼻歌でなぞる |
| リズミックムーブメント | 拍・リズムを全身で感じる感覚 | 音楽に合わせてただ歩く、手拍子を打つ |
| インプロヴィゼイション | その場でリズムや動きを組み立てる力 | 決めた拍だけ手拍子を変えてみる即興 |
日本での広がりと、大人向け教室の実際
日本へは大正時代に伝わり、音楽教育者の小林宗作と天野蝶が先駆者として知られています。長らく乳幼児教育の文脈で広まってきましたが、近年は大人向けのリトミック教室も国内に見られるようになりました。教室運営者の説明では、体を使って音楽を学ぶことで衰えやすい運動能力の維持が期待できることや、人と一緒に体を動かす中でコミュニケーションや集中力が鍛えられることが利点として挙げられています。ここは研究で厳密に検証された効果というより、教室運営者の経験に基づく紹介である点は、正直にお伝えしておきたいところです。
教室に通わなくても、試せること
「教室に通うのはハードルが高い」と感じる方のために、リトミックの発想を借りた小さな一歩をひとつ提案します。メトロノームやスマートフォンのクリック音を一定のテンポで鳴らし、その音に合わせてただ「歩く」。慣れてきたら、拍の頭だけ手をたたいてみる。それだけで、楽譜の上のリズムではなく、体の中にあるリズムに意識が向きます。ダルクローズが音楽院の教室で目指したのも、まさにこの「体で先に感じる」という順番でした。大きな決意も、特別な道具もいりません。今日、好きな曲を一曲かけて、その拍に合わせて部屋の中を歩いてみる。あなたの体は、思っているより先にリズムを覚えているかもしれません。