コロンブスより、500年早かった。
要点:「ヨーロッパ人が初めてアメリカ大陸に着いたのはコロンブス(1492年)」——この一文は、少し早すぎる幕引きです。実際にはその約500年前、北欧のヴァイキングが北大西洋を島づたいに渡り、いまのカナダ・ニューファンドランド島にたどり着いていました。中世アイスランドの物語「サーガ」がレイフ・エリクソンらの航海を伝え、1960年にはその物証となる遺跡「ランス・オ・メドー」が見つかります。さらに近年の研究は、太陽が残した"時の目印"を手がかりに、彼らがそこで木を切った年を「1021年」とほぼ確定させました。何が確かで、何が諸説なのかを分けて振り返ります。
アメリカ大陸を「発見」したのは誰か、と問われれば、多くの方がクリストファー・コロンブスの名を挙げるはずです。1492年、大西洋を西へ渡った、あの航海です。学校でもそう習います。けれど、ヨーロッパから来た人々が初めて北アメリカの土を踏んだ時期という一点にしぼると、話はもう500年ほどさかのぼります。主役はスペインの帆船ではなく、北欧のヴァイキング。彼らは大西洋を一気に横断したのではなく、島から島へと足場を伝って、静かに西の果てへ届いていました。
まず、物語が語っていた
手がかりの一つは、中世アイスランドで書き残された散文物語「サーガ」です。とくに『赤毛のエイリークのサガ』と『グリーンランド人のサガ』という二つの物語(あわせて「ヴィンランド・サガ」と呼ばれます)が、北アメリカへの航海を伝えています。これらは13世紀ごろに文字にまとめられたとされ、出来事から二百年ほど後の記録である点には注意が必要です。文学であり、そのまま史実の台本とは読めません。
物語の筋はおおよそ次のようになります。北欧の人々はまずアイスランドへ、続いて赤毛のエイリーク(エイリークル)に率いられてグリーンランドへと居住地を広げました。ある時、商人ビャルニ・ヘリョウルフソンがアイスランドからグリーンランドへ向かう途中で嵐に流され、見知らぬ陸地を遠くに見たと伝わります。その話を聞いた赤毛のエイリークの息子レイフ・エリクソンが、仲間とともにその陸を目指して船を出しました。西暦1000年前後のこととされます。
レイフたちは、北から順に三つの土地に名をつけたと物語は語ります。岩ばかりの「ヘルランド」、森におおわれた「マルクランド」、そしてブドウにちなむ「ヴィンランド(ぶどうの地)」です。今日ではそれぞれ、カナダのバフィン島・ラブラドル半島・ニューファンドランド島あたりに当たると考える研究者が多いものの、名と場所の対応は推定であり、確定した地図があるわけではありません。
図:北大西洋を「島づたい」に西へ渡った大まかな流れを示す概略図です。海岸線・位置・縮尺は正確ではありません(模式図)。青い矢はおおよその進路、オレンジのピンは物証が見つかった遺跡ランス・オ・メドーのおおよその位置を示します。三つの土地の名と現在地の対応は推定です。
そして、物証が出てきた
物語だけなら、「北欧の人々がアメリカに着いた」という話は伝説の域を出なかったかもしれません。潮目が変わったのは1960年です。ノルウェーの探検家ヘルゲ・イングスタットと、考古学者である妻アンネ・スティーネ・イングスタットが、ニューファンドランド島の北端で古い集落の跡を見つけました。地名から「ランス・オ・メドー」と呼ばれます。
1961年から数年にわたる発掘で、この場所には北欧様式の建物の跡が複数あり、出土した遺物もグリーンランドやアイスランドの同時代のものとよく似ていることが分かってきました。ここが、いまのところ確実に裏づけられた「アメリカ大陸で最初のヨーロッパ人の拠点」とされています。この価値が認められ、遺跡は1978年にユネスコの世界遺産に登録されました。
物語が指し示す方角に、たしかに人が住んだ跡があった——。ランス・オ・メドーは、サーガと考古学が静かに握手した場所だといえます。
ただし、ここで一つ、慎重に線を引いておきたいことがあります。ランス・オ・メドーが北欧の拠点であったことは確からしい一方で、それが物語に出てくるレイフ・エリクソン本人の営んだ集落そのものかどうかは、遺跡だけからは確かめられません。物語の登場人物と発掘現場を、そのまま結びつけて語ることはできない、というのが誠実な立場です。
「1021年」は、どうして分かったのか
近年になって、この物語に新しい一行が書き加えられました。彼らがこの地で木を切ったのは「1021年」だ、と年まで特定する研究が2021年に発表されたのです。手がかりになったのは、意外にも太陽でした。
993年ごろ、太陽の大きな活動によって地球に降りそそぐ宇宙線が急に増えた出来事があったとされ、研究者の名にちなんで「ミヤケ・イベント」と呼ばれます。この時、大気中で作られる炭素14という物質が世界中で一斉に跳ね上がり、その年に育った木の年輪に、はっきりした"目印"として刻まれました。世界のどこの木でも、同じ年の年輪に同じ印が残る——いわば、自然がつけた共通の日付印です。
研究チームは、遺跡から出た木材の年輪を調べ、この993年ごろの印を探し当てました。そして、印のついた年輪から樹皮側へ年輪を数えると、ちょうど28本外側で樹皮に達しました。つまり、その木が切り倒されたのは993年ごろから28年後、すなわち1021年だと導けたのです。別々の三本の木が、そろって同じ年を指したことが、この結論を支えています。しかもそれらの木の切り口には金属の刃で切った跡があり、当時この地の先住の人々が用いた道具では説明しにくいことも、北欧の人々の手によるものだとする根拠になりました。
これによって1021年は、コロンブス以前に大西洋の向こう側にヨーロッパ人がいたことを示す、暦の上での確かな一点になりました。歴史の年号が、天文と年輪という理科の手法で裏づけられた——「文系」「理系」という線引きが、ここではきれいに溶けています。
「発見」という言葉の、置きどころ
最後に、言葉づかいについて一言だけ添えます。私たちはつい「◯◯がアメリカを発見した」と言いがちですが、その土地には古くから先住の人々が暮らしていました。北欧の人々が着いたとき、そこはすでに誰かの土地だったのです。実際、サーガにも現地の人々との接触や衝突が語られ、拠点が長くは続かなかったこともうかがえます。ですから「ヨーロッパから来た人が初めて着いた」と「無人の地を発見した」は、同じではありません。
コロンブスの1492年を否定する必要はありません。彼の航海が世界の結びつきを大きく変えたことは、それとして重い事実です。ただ、その手前に1021年という確かな一点があり、さらにその前から人が暮らしていた——歴史は、たいてい「最初」の一つ手前に、もう一つの「最初」を隠しています。教科書のよく知る一文に、静かに脚注を書き足してみる。その作業こそが、大人の歴史の読み直しの、いちばんおもしろいところかもしれません。