「活版印刷を発明した男」は、何を発明したのか。
要点:ヨハネス・グーテンベルク(1400年頃〜1468年、ドイツ・マインツ)が1450年代半ばに完成させた「42行聖書」は、ヨーロッパで金属の活字を使った量産印刷の始まりとされます。ただし「動かせる活字」そのものはもっと古く、中国の畢昇(1040年頃・粘土活字)、朝鮮では金属活字で刷られた『直指』(1377年)が先行しました。グーテンベルクの本当の功績は、活字を鋳型で大量に鋳ること・油性インク・搾り機を応用した印刷機を、一つの「仕組み」として束ねた点にあると説明されます。この仕組みは約半世紀でヨーロッパ250以上の都市へ広がりました。年代や部数には資料により幅があります。
「活版印刷を発明したのはグーテンベルク」——世界史の教科書でおなじみの一文です。三大発明(火薬・羅針盤・活版印刷)の一つとして名前を覚えた方も多いでしょう。ただ、この一文には少しだけ引っかかるところがあります。「発明」という言葉が、実際より大きく響いてしまうのです。今回は、彼が何を遺し、何を"発明していなかった"のか、そして本当に新しかったのは何だったのかを、順にたどってみます。
まず、彼が遺したもの
ヨハネス・グーテンベルクは、1400年頃にドイツのマインツで生まれたとされる金属加工の職人でした。彼の名を歴史に刻んだのが、1450年代半ばに完成した「42行聖書」(グーテンベルク聖書)です。ラテン語の聖書で、1ページが42行の二段組みで組まれていたことから、この名で呼ばれます。制作は1452年頃に始まり、1455年頃までに刷り上げられたと考えられています。印刷部数の正確な記録は残っていませんが、少なくとも180部ほど——多くは紙、一部は羊皮紙(ヴェラム)に刷られた——とする推定が広く知られています。一冊ずつ手で書き写していた時代に、同じ本を百部以上そろえた。これが、後に「グーテンベルク革命」と呼ばれる出来事の号砲でした。
「活字」は、彼の発明ではなかった
ここで通説を一度立ち止まらせます。文字を一つずつ独立した部品にして、並べ替えて何度でも使う——この「動かせる活字(可動活字)」という発想自体は、グーテンベルクより数百年早く東アジアにありました。中国では北宋の畢昇(ひっしょう)が1040年頃に粘土の活字を作ったと伝えられます。朝鮮半島ではさらに進んで金属の活字が用いられ、現存する世界最古の金属活字本とされる仏教書『直指(チクチ)』は1377年に高麗で刷られました。これはグーテンベルクの聖書より、およそ80年も前のことです。
では、なぜアジアの活字がヨーロッパのような「爆発」を起こさなかったのか。よく挙げられる説明が、文字数の壁です。漢字は数千字を用意しなければならず、活字を一式そろえるだけで膨大な手間がかかります。木版に一枚まるごと彫る方式のほうが、かえって実用的な場面も多かったとされます。ここには諸説がありますが、「活字を発明したのは誰か」を一人に絞る問いが、そもそも成り立ちにくいことは確かです。
では、何が新しかったのか
グーテンベルクの功績を正確に言うなら、「活字の発明」ではなく、活字を安く速く量産し、紙にきれいに刷り、商品として本を作るまでの一連の工程を『一つの仕組み』にまとめ上げたこと、と説明されます。ばらばらだった要素を、噛み合う歯車にしたのです。主だった工夫は、次のようなものだと整理されています。
| 要素 | グーテンベルクの工夫(とされるもの) |
|---|---|
| 活字づくり | 金属の合金を鋳型に流し込み、同じ形の活字を大量に、正確に量産する仕組み |
| インク | 金属の面によくのる油性のインク(水性ではうまく定着しなかった) |
| 印刷機 | ブドウやオリーブの搾り機を応用した、圧力で一気に刷る圧盤式の機械 |
| 文字数の相性 | アルファベットは字種が少なく、活字方式ととても相性が良かった |
一つひとつは、まったくの無から生まれたわけではありません。搾り機は元からありましたし、金属加工も彼の本業です。けれど、それらを「本を量産する」という一点に向けて組み合わせたところに、彼の非凡さがありました。発明というより、統合と実用化——そう捉えると、教科書の一文の輪郭がくっきりします。
半世紀で、250の都市へ
この仕組みは、驚くほどの速さでヨーロッパ中に広がりました。マインツで生まれた技術は職人たちの移動とともに各地へ運ばれ、ケルン(1466年頃)、イタリアではローマ近郊のスビアコ(1465年頃)を皮切りにローマ(1467年頃)、ヴェネツィア(1469年頃)、フランスのパリ(1470年頃)、ポーランドのクラクフ(1473年頃)、そしてイギリスのロンドン近郊ウェストミンスター(1477年頃)へと届きます。1500年までには、ヨーロッパの250を超える都市に印刷所が置かれていたとされます。
図:印刷技術が広がったおおよその方向を示す概略図です。海岸線・国境・都市の位置は正確ではありません(模式図・位置は概略)。オレンジがマインツ(起点)、青が各都市と伝来のおよその年です。イタリア最初の印刷所はローマではなくスビアコ(1465年頃)とされます。
広がったのは印刷所の数だけではありません。1501年より前に刷られた本は「インキュナブラ(揺籃期本)」と呼ばれますが、その版の種類は3万点前後にのぼるとされ、刷られた冊数は推計で数百万部から二千万部規模と、資料によって大きく幅があります。一冊を写すのに写字生が何か月もかけていた世界が、半世紀でここまで変わったことになります。
皮肉な結末
ところが、この偉業を成し遂げた本人の晩年は、明るいものではありませんでした。印刷事業には多額の資金が要ります。グーテンベルクは出資者ヨハン・フストから融資を受けていましたが、聖書がまさに完成へ向かう1455年頃、フストとの間で返済をめぐる裁判が起き、グーテンベルクは工房や道具の多くを失ったと伝えられます。事業はフストと、グーテンベルクの弟子だったペーター・シェッファー(後にフストの娘婿となる)が引き継ぎ、二人は1457年に「マインツ詩篇」を刊行します。これは印刷者名や刊行年を記した「奥付(コロフォン)」を備えた最初期の本の一つとして知られます。
皮肉なのは、その42行聖書に、グーテンベルク自身の名前がどこにも刷られていないことです。時代を変えた本に、作り手の署名がない。名を記す文化を広げた張本人が、自らの最大の仕事には名を残さなかった——歴史はときどき、こういう静かな逆説を用意します。
本が「写す」ものでなくなってから
活版印刷が広げたのは、本そのものだけではありません。同じ文章を、速く・安く・大量に、そして正確に複製できるようになったこと。それは、知識が一部の人の手から離れ、多くの人の手元へ流れ出す入り口でした。この後にやってくるルネサンスの広がり、宗教改革、そして科学の発展が、印刷という土台の上で加速したとする見方は広く共有されています。もっとも、印刷が「すべてを変えた」と一本の線で語るのは行き過ぎで、社会の側の変化と噛み合って初めて力を持ったのだ、という慎重な議論もあります。
誰が最初に活字を思いついたのか。その問いに一人の名前で答えるのは難しい。けれど、「一冊の本を、写すものから作るものへ変えた仕組み」を実用の水準で束ね直した人物として、グーテンベルクの名が残っていること自体は、たしかな理由があってのことだと言えそうです。あなたがいま画面で読んでいるこの文章も、たどれば、あのマインツの工房から続く長い一本の道の先にあります。