マチュピチュを「見つけた」のは、誰だったのか。
要点:1911年7月24日、アメリカの探検家ハイラム・ビンガムが、アンデスの尾根に眠るインカの都市マチュピチュに足を踏み入れました。この夏でちょうど115年になります。長く「発見者」と呼ばれてきた人物ですが、その日、彼を導いた地元の案内人がいて、9年前に自分の名を石に刻んでいた農民もいました。都市はインカ皇帝の離宮だったとされ、スペインの征服者には見つからずに残ったと考えられています。有名な「発見」の物語を、確かめられる範囲でたどり直します。
ペルー南部、標高2,400メートルほどの尾根に、石組みの神殿と段々畑が広がる都市があります。マチュピチュ。「空中都市」とも呼ばれるこの遺跡が世界に知られるきっかけになったのが、1911年7月24日の出来事でした。この7月24日で、ちょうど115年になります。教科書では「ハイラム・ビンガムが発見した」と一行で片づけられがちなこの日を、少し立ち止まって振り返ってみます。
ビルカバンバを探していた男
ハイラム・ビンガム3世(1875〜1956)は、アメリカ・イェール大学で南米史を講じていた人物です。もともと彼が探していたのはマチュピチュではありませんでした。スペインの征服に抵抗したインカが最後に立てこもった都、ビルカバンバの跡だったとされます。その調査のなかで、地元でうわさに聞いた尾根の遺跡へ向かったのが、あの日でした。
案内したのは、麓に暮らす農民メルチョール・アルテアガだったと伝えられます。川を渡り、急な斜面をよじ登った先で、ビンガムは草木に覆われた石組みと段々畑を目にします。そして、そこには先客がいました。到着したとき、遺跡の一角ではすでに数組の家族が暮らし、畑を耕していたと記録されています。都市への最後の道を示したのも、地元の少年だったと伝えられます。マチュピチュは「誰にも知られず眠っていた」わけではなかったのです。
先に、名を刻んだ者がいた
ビンガムより前に、この地へ達していた人物の記録も残っています。1902年、地主に雇われていた農民アグスティン・リサラガが、この遺跡にたどり着き、「三つの窓の神殿」の窓に「A. Lizárraga 1902(リサラガ 1902)」と炭で書き残したと伝えられます。ビンガム自身、その痕跡に気づいていたようですが、当初その存在を強くは語らなかった、とも指摘されています。さらにさかのぼると、1867年にペルー政府が近隣の土地をドイツ人実業家アウグスト・ベルンスに売却していたことを示す地図が、1978年になって見つかっています。
「発見」という言葉は、たいてい発見した側の視点で語られます。すでにそこに暮らす人がいたなら、それは「発見」だったのか、それとも「世界への紹介」だったのか——立場によって呼び方が変わります。
興味深いのは、ビンガム本人の語り方が年を追って変わっていったことです。1922年の著書『インカの地(Inca Land)』では、彼はリサラガを先に到達した者として認めていたと伝えられます。ところが1952年の『インカ 失われた都市(Lost City of the Incas)』では、自分こそが見つけたのだという色合いが濃くなっていった、とされます。同じ出来事でも、語り手と時が変われば、物語の形は変わる。これは諸説あるうちの有力な見立てで、細部には議論が残ります。
その都市は、何のためにあったのか
では、マチュピチュとは何だったのでしょうか。ビンガムは当初、これを最後の抵抗都市ビルカバンバだと考えたようですが、後の研究でその見方は退けられています。ジョン・ロウやリチャード・バーガーらの研究によれば、マチュピチュは軍事要塞ではなく、15世紀半ばのインカ皇帝パチャクティのために築かれた離宮(王の私領)だったと考えられています。皇帝や貴族が季節ごとに滞在する場であり、宗教的な役割も担っていた、という理解です。
この都市が長く外の世界に知られなかった理由も、そこに関わります。16世紀にスペインがインカ帝国を征服したとき、征服者たちはこの尾根の都市までは到達しませんでした。そのため破壊や略奪を免れ、やがて放棄されたまま、密林に覆われて残った——と説明されます。石を隙間なく積む高度な建築が、五百年近く崩れずに残った背景には、そうした偶然もありました。
持ち出された遺物と、百年後の返還
ビンガムはその後、1912年と1915年にも調査を行い、人骨・陶器・青銅の道具・織物など数千点にのぼる出土品をアメリカへ持ち帰り、イェール大学のピーボディ博物館に収めました。当時のペルー政府とのあいだでは、研究のための一時的な貸し出しという理解だったとされます。その扱いをめぐる論争は長く続き、最終的に2010年から2012年にかけて、イェール大学とペルー政府が遺物を段階的に返還することで合意しました。持ち出しから、ほぼ百年後のことでした。
マチュピチュは1983年に世界遺産(複合遺産)に登録され、いまではペルーを代表する場所として世界中から人が訪れます。あの1911年の夏の日から、遺跡そのものは何も変わっていません。変わったのは、それを「誰の物語」として語るか、でした。ビンガムの功績は、この都市を丹念に記録し、世界に知らしめた点にあります。同時に、そこにはアルテアガがいて、リサラガの署名があり、畑を耕す家族がいた。歴史を振り返るとは、一人の英雄の物語に、消されがちな名前をそっと書き戻していく作業でもあるのだと、あらためて思います。