文学・作家 — 2026.10.20 NO.094 / TSUGINOTE LEARN

志賀直哉「小説の神様」なのに代表作は17年がかり。

文机に置かれた万年筆と書きかけの原稿用紙。障子窓の向こうに、湯煙の立つ温泉宿の灯りと、垂れた柳の枝が見える

要点:「小説の神様」と呼ばれた志賀直哉(1883〜1971年)は、学習院時代に二度落第した学生でもあった。山手線の電車事故をきっかけに城崎温泉で療養し、長らく不和だった父との関係を描いた『和解』は、実際の和解のあとわずか半月で書き上げている。代表作『暗夜行路』は1921年から1937年まで、足かけ17年にわたって断続的に連載された。あす10月21日、没後55年を迎える。

「小説の神様」は、二度落第している。

文机の上に、半分だけ埋まった原稿用紙がある。

残りを何年も埋められずにいたのは、志賀直哉という作家である。


優等生ではなかった

1883年2月20日、宮城県石巻の生まれ。父は銀行員で、直哉が2歳のころに勤めを辞め、東京で事業家として成功した。

学習院に通った少年は、しかし神童ではない。中等科時代、二度までも学年を落としている。

のちに「小説の神様」と呼ばれる人の、これが最初の履歴である。


大学を出ず、仲間と雑誌を

1910年(明治43年)、東京帝国大学の国文学科を中退した。27歳である。

学習院の学友だった武者小路実篤・有島武郎・里見弴らと、同人誌『白樺』を創刊したのは、同じ年のことだった。学位よりも先に、仲間を得た。


電車に、はねられて

1913年8月15日、芝浦の埋立地を歩いた帰り道。山手線の電車に背後から衝突され、頭と背中を打った。

湯治がよいと聞き、評判を頼りに向かったのが、但馬の城崎温泉である。宿は三木屋、二階の一室に滞在した。

この療養での日々が、短編「城の崎にて」の土台になる。だが発表は、事故から4年後だった。1917年(大正6年)5月、同人誌『白樺』でのことである。

蜂、鼠、いもり。三つの小さな死を見つめた記録として、いまも読み継がれている。「私小説の代表作」という呼び方自体、輪郭があいまいだと疑う研究もある。

「城の崎にて」は現在も著作権の保護期間内にあり、本文からの引用は行っていない(内容は要約・言及にとどめている)。


和解までの、長い沈黙

父との仲は、長らくこじれていた。原因を、志賀自身はほとんど語っていない。

ある論文が、志賀自身の述懐を紹介している。父との不和を材料にした長編を、幾度も計画しては挫折した。期間にして、およそ五、六年という。

実際の和解が成立したのは、1917年8月のこと。志賀はその喜びのまま、ほかの仕事を中断し、わずか半月で一編を書き上げた。題は『和解』。

作中の和解の日付は、8月30日に定められている。同じ年の5月には、「城の崎にて」も世に出ていた。


「神様」の正体は、十七年

代表作とされる長編『暗夜行路』は、雑誌『改造』に発表された。開始は1921年1月、完結は1937年4月。足かけ17年である。

この間には、9年近い休載もあった。数え方は資料によって割れ、15年とも、25年とも書かれる。基準をどこに置くかで、答えが動く作品なのだ。

神様と呼ばれた作家は、むしろ長く書けなかった人だった。一字を選ぶのに、何年も机に向かう。削るものが見えるまで、待ち続ける。


切り抜きでは、読んだことにならない

ここからは、私の読みである。

「簡潔な文体」という評判だけが、独り歩きしている。名言を一行だけ抜き出して、分かった顔をする読み方をよく見る。

だが簡潔さは、結果でしかない。十七年の書けなさを通り抜けた先に、ようやく無駄のない一文が残る。工程を飛ばして結晶だけを欲しがるのは、鉱山を見ずに宝石台帳だけ眺めるようなものだ。

五、六年の不和も、十七年の連載も根は同じだ。すぐには書けないものを、書けるようになるまで待つ動きである。

落第した学生が、神様と呼ばれるまでの距離。そこにあるのは才能の話ではなく、机に向かい続けた年月の話だと、私は読む。


最後に駆けつけた友人

1971年10月21日、東京・世田谷区の関東中央病院で死去した。享年88。あすで、没後55年になる。

葬儀には、86歳になっていた武者小路実篤が駆けつけ、弔辞を読んだ。1910年、学位より先に得た友人である。半世紀を超えて、関係は途切れなかった。


次に開く一篇

志賀直哉の作品は、没後70年の著作権保護期間がまだ満了していない。青空文庫で全文を読める日は、2042年を待つことになる。

いま手に取るなら、文庫が近道である。「小僧の神様」ほか十篇を収めた岩波文庫のワイド版は、短編だけを選んで読める一冊だ。表題作は数頁で終わる。

十七年を要した長編より、まずこちらから始めるのがよい。

一文の長さを数えながら読むと、削られた言葉の分だけ、空白が見えてくる。

出典:Wikipedia「Naoya Shiga」(英語版・生没年1883年2月20日〜1971年10月21日・東京都世田谷区の関東中央病院で死去)en.wikipedia.org、「直哉忌」解説(没年月日1971年10月21日・享年88)zatsuneta.com、豊岡市立図書館・城崎地域局資料(1913年の電車事故と城崎温泉三木屋での療養の経緯)lib.city.toyooka.lg.jp、神戸新聞NEXT「志賀直哉、吉田兼好、島崎藤村…城崎温泉に20以上、文豪ゆかりの碑がある理由」(2021年3月)kobe-np.co.jp、新潮社書籍詳細「和解」(1917年8月の和解成立・半月で執筆・作中日付8月30日)shinchosha.co.jp、明治大学リポジトリ所収論文(父との不和を材料にした構想を「此五六年間」繰り返したとする志賀自身の述懐の紹介)meiji.repo.nii.ac.jp、コトバンク「暗夜行路」(『改造』誌、1921年1月〜1937年4月の断続連載)kotobank.jp、朝日ネット掲載・作家紹介「志賀直哉」(生没年・学習院時代の二度の落第・白樺創刊・「小説の神様」の呼称)asahi-net.or.jp、環境省「環境省五十年史」(環境庁の発足日1971年7月1日)env.go.jp。暗夜行路の執筆・連載期間の数え方(15年・17年・25年)は資料により差があり、本文では雑誌『改造』での発表期間(1921年1月〜1937年4月)にもとづく「足かけ17年」を基準とした。「城の崎にて」「小僧の神様」「和解」の本文からの引用は行っておらず、内容はすべて二次資料にもとづく要約・言及である。
EDITOR'S NOTE — ノベル:この記事では、志賀直哉の一文を一つも引けませんでした。権利の壁の向こうにある文章を、要約の言葉で囲むだけの作業です。削るべき言葉を自分で選べないもどかしさを、書きながら感じていました。

編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.10.20
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